柴田錬三郎著 猿飛佐助 目 次  前説  猿飛佐助  霧隠才蔵  三好清海入道  柳生新三郎  百々地三太夫  豊臣小太郎  淀君  岩見重太郎  前説  慥《たしか》なる年代は詳《つまびらか》ならず、徳川も末期の頃、五味錬也斎なる兵法者あり。その腕前の程は、とりたてて記すべきものなし。他流と試合せしこと一度もなく、また、儂《かれ》を知る者の、これを称賛せる記録ものこらざれば也。ただ、巷間《こうかん》に示せしその奇矯《ききょう》の振舞いばかり、いまにつたわるのみ。あるいは、酔余、全裸となり、怒脹《どちょう》せる男根に、徳利を携《さ》げて、高声放吟しつつ、両国の盛場を横行|闊歩《かっぽ》せしとか、あるいはまた、辰巳《たつみ》芸妓と酒席のたわむれにその実行を誓《ちか》うや、たちまち、彼《か》の女を背中に負いて、東海道五十三次を、歩き通すなど——  その晩年は、何処《いずこ》に果てたるかを知らず。不惑《ふわく》の年齢にいたりて、武州多摩郡立川辺に、草庵をむすび、数年すごせしことのみ明らか也。轗軻不遇《かんかふぐう》をかこちたる模様なるも、身から出たる錆《さび》と申すべし。大和国の豪家に生れしも、青年にして、巨富を湯水のごとく蕩尽《とうじん》し、出府せる際は、すでに、懐中無一文なりし由なれば、尋常の生業に就く能《あた》わず、せめて奇矯の振舞いでも、世間に示すよりほかにすべはなかりしものとおぼゆ。  扨《さて》、余は、偶然にも、儂《かれ》がひそかに、書き残せし「兵法伝奇」なる一書を入手し、にわかに、その異能を認めて、機会あらば、これを現代文に書きあらためて、公表せんと、数年来心がけて来たれり。その一書は、けだし、奇矯の振舞いにも倦《あ》きて、立川郷に蟄居《ちっきょ》せし間に、つれづれなるままに、筆を執りしものなるべし。古びたる表紙には「立川文庫」と記されてあり。  大正の頃、大阪の講釈師なにがしが、「立川文庫」を為《つく》りて、人口に膾炙《かいしゃ》せしめたることは、述べるまでもあらず。思うに、講釈師なにがしは、五味錬也斎が書きのこせしものを読む機会ありて、為《つく》りしものなるべし。天賦《てんぷ》乏しき者の書写なれば、今日すでに、読むに堪えず。五味錬也斎の豊かなる仙才は、読者諸賢が知る「立川文庫」とは、似て非なるものにて、現代知識階級をして手に把《と》らしむるに足る価値ありと、余は信じ居れり。  もとより、余もまた天賦乏しきは、さきの講釈師と五十歩百歩なれば、はたして、錬也斎が文華を、正しく、現代文に為《つく》れるやいなや、甚だ忸怩《じくじ》たるものありと雖《いえど》も、いまこの機会を逸《いっ》せば、いつの日に、書きあらためられるか心もとなし、と肚《はら》をきめて、敢《あ》えてペンを執りたる次第也。  斯《か》かる前置きをなす所以《ゆえん》のものは、世上記憶に在る「立川文庫」に非ざることを断るとともに、篇中しばしば、荒唐妄誕《こうとうもうたん》も甚だしと眉宇《びう》をひそめしむる箇処が現れる故、これは、決して余がでまかせに非ずして、ひとえに、五味錬也斎が奔放自在《ほんぽうじざい》の空想力の所産なることを明らかにいたし置く心得なればなり。諸賢、これを諒《りょう》とせよ。  昭和壬寅元旦 柴田錬翁敬白  猿飛佐助  一  天正十年三月十一日、武田勝頼は、天目山《てんもくざん》の麓の田野という村里の仮屋で、織田信忠の軍勢五千に包囲されて、屠腹《とふく》し、ここに武田家は、滅びた。  ——もはや、これまで!  と、覚悟した勝頼は、重臣某に、無言で頷《うなず》いてみせた。  心得た重臣は、直ちに、不動明王の画像を描いた巨大な朱塗り太鼓を、摺《す》り搏《う》ちに、四十九打した。この太鼓は、戦国武将中屈指の仏教信仰者であった武田信玄が、曹洞禅《そうとうぜん》に参じた際、信濃の龍雲寺の北高全祝から、贈られた家宝であった。  信玄は、北高全祝を来世|首魁《しゅかい》の師として崇敬していたので、常に、傍《かたわら》に据えて、おのが運を、その鼓音に托した。すなわち、出陣にあたって士気を鼓舞《こぶ》する際には七打し、戦勝を祝う時には十三打するといったあんばいに、またその打ちかたも遅速自在に変えるように定めていたのである。  そして、遺言の中にも、 「武田家が滅びる日には、摺り搏ちに四十九打せよ」  という一条を加えておいたのである。  その日が、ついに来たのである。  その一打一打に合せて、仮屋にめぐらした柵に、つぎつぎと、燃えるような緋色《ひいろ》の幟《のぼり》が、立てられていった。  太鼓が鳴りおわった時、仮屋は、四十九本の赤い雲罕《はたじるし》によって、包まれた。  織田の軍勢も、これが、武田家の降旗と知っていたか、急に、矢弾を撃つのを止め、鯨波《げいは》を絶った。  天地は、嘘のように、静寂に還った。  勝頼は、重臣に、 「妻《うち》は、いかがいたした?」  と、訊ねた。  重臣は、俯向《うつむ》いて、 「侍女二人の供にて、恵林寺《えりんじ》へおもむかれました」  と、こたえた。  勝頼の妻蘭渓は、曾《かつ》て甲斐恵林寺の和尚|快川《かいせん》に就いて参禅したことがある。快川は、信玄の請《しょう》じた名僧で、後日、織田信長によって寺院を焼かれるや、 「心頭を滅却《めっきゃく》すれば、火もまた涼し」  とうそぶいて、紅蓮舌《ぐれんぜつ》になめられつつ、従容《しょうよう》として示寂《じじゃく》している。  勝頼は、妻が、その実家である小田原へ帰らずに、禅寺に行ったことに、微《かす》かな満足をおぼえた。  妻は、臨月の大きな腹をしていた。  ——快川ならば、かくまって、生ませてくれるであろう。  勝頼は、妻が生むのが、必ず男子であり、それが、将来武田家を再興してくれるような予感がしていたのである。  かたわらに、今年十六歳の長子信勝が、坐っていたが、これは、病弱であり、気性も弱かったので、おのれに殉じせしめる肚《はら》であった。 「では、逝《い》こうか」  三十七歳の勝頼は、六十歳の老爺のようにのろのろとした動作で、短剣の鞘を払うと、 「信勝、父が作法に倣《なら》え」  と、云った。  すると、生きた心地もない様子でいた信勝が、血の気のない顔面に、にわかに、慴怖《しょうふ》の色をあふらせて、 「父上! わ、わたくしは、死にたくありませぬ!…‥生かして下され!」  と口走って、平伏した。  勝頼は、叱咤《しった》しようとして、信勝の項《うなじ》の、女のように白く細いのを一|瞥《べつ》すると、口をつぐんだ。  終日、書物をひもといていれば、それで満足している少年であった。武将の子に生れたのがあやまっていたのである。学者としては一流になり得る頭脳をそなえているに相違なかった。  ふびんさに、当惑している勝頼を、じっと瞶《みつ》めていた重臣が、 「殿——」  と、呼んだ。 「それがしに、若をお救いするてだてがござる」 「あるか?」  勝頼は、思わず、迂愚《うぐ》な父親の表情になった。  重臣は、胴にはさんでいた鉄製の呼子を把《と》って、口にした。  鋭い金属音を合図に、影のように音もなく、一人の人物が入って来た。  黒衣で全身をつつんでいたが、その左腕と右脚は、無かった。黒光りする義手義足をつけていた。 「数年前よりやとい入れて居り申した忍者《にんじゃ》でござる。戸沢白雲斎と申し、秘術抜群なれば、若をお落し申上げることは、さほど至難ではござるまい」  重臣とすれば、信勝のような臆病者を生きのびさせることに、なんの熱意もないので、口調は冷やかであった。  二  それから、半刻《はんとき》ののち、四十九本の赤旆《あかはた》が、同時に、音もなく、地べたへ倒れた。 「おう——武田勝頼の自刃がおわったぞ」  粛《しゅく》としてしずまりかえっていた包囲陣は、にわかにどよめいて、どっと、柵をのりこえて、仮屋へ殺到した。  惨たる死の世界が、そこに、あった。  およそ二百名をかぞえる人々が、おのおのの座をきめて、武田家の面目を保つ見事な最期を示していた。  織田信忠は、勝頼の屍骸《むくろ》を検《み》てから、ふと気がついて、 「信勝の死体がないぞ」  と叫んだ。  奇怪なことだった。包囲陣を突破した者は一人もなかったし、さして広くもない仮屋はすでに隅々まで探索して、生きた人間を一人も発見してはいなかった。  信勝という少年だけが、煙のように消えうせていたのである。 「もう一度、丹念に調べい!」  下知《げち》とともに、士卒は武具を鳴らして、再び八方に奔《はし》った。  やがて、発見した生きものといえば、炭小屋に、藁束を褥《しとね》にして、寝そべっているいっぴきの大きな白犬であった。  ちょうど、母親のつとめをはたしたばかりで、小さく蠢《うごめ》くものを、その腹にすがらせていた。  どやどやとふみ込んで来た人間どもを警戒して、首を擡《もた》げると、ひくく唸《うな》った。 「ほほう、畜生のあさましさよ、主人が他界したと申すのに、六匹も生んで居るわ」  しかし、この平和な光景は、戦士たちの荒だった神経を、ふと、なごませる効果がなくはなかった。  仮屋に火がつけられ、その煙が、この小屋にも這入って来はじめた時、白犬は、子犬どもをはねのけて、むっくりと起き上ると、おのが皮を剥《は》いだ。  中から現れたのは、忍者戸沢白雲斎であった。  すばやく、藁束をはねのけると、穴底に据えた鎧櫃《よろいびつ》の蓋をはずして、死んだようにぐったりとなっている少年を、ひきずり出した。  ところで——  織田方にも、秘術を備えた一流忍者がいた。  地獄百鬼というその忍者は織田信長が、自ら、木曾山中におもむいて、忍び谷とよばれる忍者部落から、面だましい秀《すぐ》れたのをえらんでやとい入れた一人であった。  忍者になるために生れて来たような若者であった。  無口で、無表情で、非情で残忍で、行動の大半を謎につつみ、尋常の人ならばたすからぬほどの深傷《ふかで》を負うても、常のごとく振舞って、他人に気づかせぬ体力と忍耐力を持っていた。  百鬼は、本陣わきのくさむらに寝そべって、彼方の仮屋が、炎々として燃えあがるさまを眺めていたが、ひきあげて来た人々の会話を、陣幕の内にきくや、とたんに、すっと身を起していた。  武田信勝の姿が、煙のように消えていたこと。炭小屋の中に、子を生んだ犬いっぴきがいただけであったこと。  それだけきくと、百鬼の神経が、冴えたのである。  百鬼の姿は、そこから消えた。  次の日の午《ひる》、戸沢白雲斎は、信勝をかるがると背負うて、木立のふかい天目山の急勾配の間道を、登っていた。  隻脚《せっきゃく》でありながら、黒い義足は生きているように動いて、その速度は、普通人が走るよりもまさっていた。  中腹の、やや平坦《へいたん》な地点へ達すると、頭上を掩《おお》う樹冠は、さらに濃くなり、春の陽はその上に眩《まぶ》しくかがやき乍《なが》ら、地上まで落ちて来ず、その昏《くら》さが、鳥の声もせぬ静寂を、ぶきみなものにしていた。  すたすたと行き過ぎようとした白雲斎は、ふと、その出足を停めた。  小花が散るように、まっ白い、小さなものが、面前に、ぱらぱらと、降って来たからである。  地面に落ちたそれを見れば、米粒であった。  それは、みるみる、ひとつの文字を、土の上に、書いた。   死  それであった。  白雲斎は、しかし、頭上を仰ぎもせず、すっと、一間ばかりあと退《ずさ》りしてから、信勝をせなかから、おろした。 「この場所を動いてはなりますまいぞ」  きびしく云附《いいつ》けておいて、白雲斎は、ゆっくりと、大股に、「死」の上を、またぎこえた。  それから、腰に携《さ》げている革の小袋から、小さな珠《たま》をとり出すと、無造作に、宙へ投げた。  白煙がぱっと拡《ひろが》った。そして、それは、若い女の美しい裸身が身もだえるように、ゆるやかにうねっていたが、やがて、鮮やかに、ひとつの文字を描き出した。   生  と、読めた。  白雲斎は、空中から米粒を落して、地べたに、「死」という一文字を書く地獄百鬼という忍者のことを知っていて、これに対して、おのが特技をもって応えてみせたのである。  二間のむこうに、黒影が、湧くがごとく出現した。  白雲斎は、にやりとした。強敵と秘術を競うのは、ひさしぶりのことであった。  対手《あいて》は、二歩ばかり進み出て、 「戸沢白雲斎——犬に化けて、武田の御曹子《おんぞうし》を救うたとは、見事だ。この地獄百鬼が、御曹子の首をもらうぞ」  昂然《こうぜん》と、うそぶいた。  白雲斎は、無言で、待つ。  百鬼は、さらに、二歩を迫った。  ——これは、若い!  白雲斎は、百鬼が、まだ二十歳をこえて間もないのを、直感した。白雲斎は、すでに五十の坂をこえていた。  まともに闘っては、体力の消耗差によって、敵《かな》うべくもない。  不意に、白雲斎が、一喝した。 「何をおそれるぞ、百鬼!」 「なに? おそれるとは!」 「飛翔《ひしょう》の距離に来て、迷うとは、見苦しい! 血気ならば、飛べいっ!」  白雲斎は、老獪《ろうかい》にも、百鬼が、飛翔の術を使うべく、四歩を進み乍ら、その地点で、ふっと、一瞬の迷いを生じたのを、看破《かんぱ》したのである。 「ふん——」  百鬼も、さる者、誘発には乗らず、一瞬、右手を旋回させた。一条の綱が、掌の内から、飛び出して、矢のように、白雲斎めがけて、襲って来た。  ただの綱ではなく、数千本の針が、毬《いが》のように、植えられている凶器であった。  狙うところは、頸《くび》である。ひと巻きに巻けば、無数の針が、頸を刺して、一|刹那《せつな》にして、勝負は決まる。白雲斎は、その義手で、無造作に、これを受けた。  針綱は、毒蛇のように、義手の手くびに巻きついて、百鬼の手もとから、ぴーん、と一直線に、張った。  百鬼は、渾身《こんしん》の力を罩《こ》めて、ひきしぼる。白雲斎は、ほんのしばし、そのおそろしい力に堪えていたが、 「……むっ!」  と、ひと息詰めざま、右半身にひねった。  瞬間——義手は、白雲斎の左肩から、すぽっと、抜けて、針綱にくるくると巻かれつつ、宙に躍った。意外、白雲斎の左腕は、煌《こう》たる白刃と化して、閃《ひらめ》いた。すなわち、義手には、一尺五寸の剣が仕込んであったのである。  百鬼が、その義手を噛んだ針綱を、大きく、空に旋回させて、凄い唸りを生みつつ、飛ばして来るや、白雲斎は、この手剣で、これを両断した。  次の刹那には、おのれの方から、地を蹴って、五体を、宙のものにしていた。  しかも、地を蹴るや、義足を膝から抜きとばしていた。義足もまた二尺の剣を仕込んでいたのである。  先年、不運にして、隻腕隻脚となった白雲斎は、その片端を逆に利用して、これにつけた義手義足に、白刃をひそめたのである。  百鬼の頭上を翔《か》けぬけざまに、手剣と足剣を、同時に、斬りあびせた白雲斎の迅業《はやわざ》は、鬼神に似た——。  百鬼は、むざとは斬られず、腰の一刀を抜く手も見せずに払って、足剣を半ばから両断する秘術を見せたが、手剣に顔面を薙《な》ぎ斬られるのを、躱《かわ》すいとまはなかった。  白雲斎が、一間のむこうに降り立った時、百鬼は、大きく跳んで、距離をはなしていた。 「しまった!」  呻《うめ》きを発したのは、白雲斎であった。  その場所を動くな、と命じておいたにも拘《かかわ》らず、信勝が、地面に書かれた「死」の一文字を見る恐怖に堪えられずに、こちらへ走り寄ろうとしていたのである。  百鬼は、血まみれの顔面を、ぶるっとひと顫《ふる》いさせるや、風のように、信勝の脇を、駆け抜け去った。  駆け抜けつつ、一颯《いっさつ》の刃音を鳴らした。  信勝の首は、宙に刎《は》ねとんだが、百鬼が、躍りあがって、それを受けとめて、小脇にかかえ込む光景は、白昼夢のように、白雲斎の眼裏に、のこった。  百鬼は、右眼を喪《うしな》った代りに、信勝の首を、首尾よくせしめたのであった。  白雲斎には、百鬼を追う体力はなかった。たとえあっても、胴をはなれた首を、とりかえすのは、無駄であった。 「わしも、老いた」  白雲斎は、手剣足剣を、義手、義足に納めて、歩き出し乍ら、呟いた。五年前ならば、空中から、百鬼の首を刎ねる秘術に、みじんの狂いもなかった筈である。  忍者が、老いをおぼえる。これほど、悲惨はなかった。  三  信勝の首級《しゅきゅう》を地獄百鬼に奪われた白雲斎には、なお、もうひとつ、任務がのこっていた。  武田勝頼夫人を守護して、無事に出産させるように、重臣から、依頼されたのである。  勝頼夫人は、北条氏政の六女であった。勝頼に嫁《か》したのは、天正五年、十五歳であった。すなわち、いまは、二十歳である。勝頼は再婚で、さきの妻は、織田信長の養女であったが、長子信勝を生むと間もなく病死していた。  北条氏政が、末妹を、勝頼に呉れたのは、関東へ伸びて来る上杉方の勢力を押えるために、武田と同盟をむすぶ——いわば、政略のひとつであった。  しかし、夫人は、勝頼のこよなき伴侶となって、嫁した翌年、勝頼が兄氏政と不和になり、公然と敵対するにおよんでも、妻は良人《おっと》にしたがうものと、小田原からの帰国のすすめに応じなかった。  戦国武将夫人として、亀鑑《きかん》となるべき女性《にょしょう》の一人であった。  勝頼は、織田信忠に信州|高遠《たかとお》城を陥落せしめられ、累代《るいだい》重恩の家臣たちから叛《そむ》かれて、ついに、新府の城をもすてなければならなくなった時、夫人に、小田原へ帰って、もし男子が生れたならば、将来武田家を再興させてくれ、とすすめている。しかし、夫人は、それを肯《がえん》ぜず、恵林寺へ行ってしまったのである。  重臣は、白雲斎に、夫人をたのむ時、次のような、冷酷な言葉を添えたのであった。 「無事出産のあかつきは、夫人には、主君に殉じて頂く。夫人も、その覚悟であろうが、わが子の顔を視て、もし覚悟がにぶったら、即座に、刺せ。……生れたのが、女子であったならば、土民へ呉れてやって、さしつかえはない。男子ならば、その方の手で育ててくれい。三歳になれば、その気象も判るであろう。もし、柔弱《にゅうじゃく》小心であれば、育てるに及ばぬ。斬りすてい」  白雲斎は、かしこまって、受けたのである。白雲斎としては、臆病な信勝を救えなかったのは、さして無念ではなかった。  しかし、それから二日後、恵林寺に到着してみて、寺院|方丈《ほうじょう》は焼き払われ、余燼《よじん》のくすぶっている無慚《むざん》な光景を目撃すると、肚の底から、憤怒した。  勝頼夫人は、気品たかい麗容のひとだったのである。  白雲斎は、焼跡にふみ入って、その死骸をさがした。  発見したのは、本堂|須弥壇《しゅみだん》前とおぼしい場所に、結跏趺坐《けっかふざ》して合掌した姿を崩さずに黒焦げた死骸だけであった。 「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」  とうそぶいて、示寂した快川和尚にまぎれもなかった。ふしぎにも、坐った場所二坪ばかりの床は、焼けのこっていた。  白雲斎は、墓地の中を通じている小径を辿《たど》ろうとして、とある新しい土を盛った墓の前の、一本の松の小枝につるされて、ひらひらと舞っている短冊《たんざく》を発見した。   黒髪の乱れたる世ぞはてしなき思ひに消ゆる露の玉の緒《お》  夫人の辞世に相違なかった。  この新墓は、自害した夫人のものなのだ。  白雲斎は、あの美しい白い肌が、焼かれずに、奥津城《おくつき》にねむったのを、せめてものなぐさめにした。白雲斎は、ただ一度だけ、遠くから、かい間視た夫人を、恋していたのである。忍者にあるまじき不覚であったが、しかし、白雲斎は、おのれを責めるかわりに、おのれのような者まで魅惑する夫人の美しさをこの世ならぬ神秘なものと思いきめたことだった。  墓前にぬかずいて、長い黙祷をささげてから、短冊を懐中にして歩き出したとたん、白雲斎は、  ——待て  率然《そつぜん》と、胸中に、ひとつの光がさすのをおぼえた。  ——奥方は、快川和尚のすすめによって、敵襲直前に、遁《のが》れ去ったのではないか? 自害したといつわったのではないか! 「うむ!」  大きく合点するや、鋭い眼光を、視界へめぐらした。  ——女の弱足では、遠方へはかくれまい!  忍者は、地形を観《み》て、遁れる者がどの方角を、本能的にえらぶかを、正確に判断して、これを追う修練を積んでいる。白雲斎は、北へむかって、飛鳥のごとく奔《はし》り出した。  ——そして日が、昏《く》れた。  十三夜の月が、山の端に昇った時、白雲斎は、とある山麓の杣道《そまみち》を、辿っていた。その足どりは、中風の翁のように、蹣跚《よろぼ》うていた。白雲斎は、半日で、二十里を奔りめぐったのである。二十里といっても、道の上の距離ではなかった。渓谷の岩を越え、密林中の灌木《かんぼく》をふみ拉《しだ》いた距離であった。  気力こそなお燠火《おきび》のように燃えていたが、体力はすでに尽きていた。  義足を継いだ大腿の断面の疼痛《とうつう》だけでも、堪え難いほどであった。  四  白雲斎が、左腕右脚を喪ったのは、すでに遠いむかしのことになる。これを斬ったのは、上泉伊勢守であった。  光源院将軍(足利義輝)が、本圀寺にたて籠った時、白雲斎は、この首級《しゅきゅう》を狙って、忍び入った。白雲斎にとって、不運であったのは、その夜、たまたまお目見えして軍監を賜り、宿泊をゆるされていた上泉伊勢守が、目をさましたことであった。  決闘は、墨を流したような闇の中でなされたが、秘術を尽したものではなく、ただ一颯の刃音で、熄《おわ》った。  すなわち。  闇に目の利く白雲斎は、長廊下をまっすぐに、奥へ進み入ろうとして、突如、二間のかなたに、人が立つのを見わけたのであった。しかし、当然、あびせかけられるであろう殺気をおぼえず、白雲斎は、一瞬、おのが目の錯覚ではないか、と疑ったくらいであった。  対手は、そのまま、微動もしなかった。  忍び入った白雲斎の方が、一喝したい衝動にかられたくらい、闇よりも濃く、暗黒の中に立った不動の姿は、もの静かであったのである。  不可解であったのは、白雲斎が、それまで、いくたびとなく闇の中で対峙《たいじ》した同業忍者の敵の、無息無臭の影とは、その静止相が、全く異質であったことである。後日、白雲斎は、年輪をくわえてから、あれは、おごそかな神前における自縄自縛《じじょうじばく》に似ていた、と思った。  ついに——この沈黙の対峙に堪えきれなくなったのは、白雲斎の若さであった。  廊下板をひと蹴りして、天井に、蜘蛛のように匍《は》いつき、そこから襲いかかった。  鋭い刃風の唸りの中で、白雲斎は、左腕と右脚が、同時に、両断される衝撃をおぼえ、廊下をころがるみにくいおのがからだの響きに、忍者の資格を襲う絶望をおぼえた。 「忍者ならば、二|肢《し》となっても、遁れるすべを知って居ろう。去れ!」  もの静かなその声音をあびせられなければ、白雲斎は、そのまま、昏絶《こんぜつ》したに相違ない。  対手が、上泉伊勢守|信綱《のぶつな》であったと知ったのは、その人が将軍家より「兵法新陰軍法軍配天下第一」の高札を諸国にうち納めることをゆるされた、という噂を耳にした時であった。  当座、白雲斎は、伊勢守に対して復讐の権化《ごんげ》となろうと、血をたぎらせたものであった。義手義足に白刃を仕込んで、まことの手足にまさる働きを、工夫し、修練することに鬼となったのも、復讐に燃えたあまりであった。  ついに、めぐり会う機会はなく、伊勢守は逝き、白雲斎も老いて、いまは、その傷痕が痛むばかりである。  ——老猫すら、死期をさとれば、姿をくらまして、屍《かばね》を、人目にふれさせぬ。まして、忍者が、老残を、陽の下にさらしてなろうか。  白雲斎は、蹣跚《よろぼ》い乍ら、若い忍者に、信勝の首級を奪われ、いままた、半日を駆け通して、恋うるひとを捜《さが》しあてられぬ惨めさを、自嘲した。  と——。  白雲斎は、はっと、顔を擡《もた》げた。  女の呻きを、きいたのである。  尋常の呻きではなく、白雲斎に、異様な戦慄を与える悲痛を罩《こ》めていた。  頭をめぐらして、樹間をすかし視た白雲斎は、木樵《きこり》小屋をみとめるや、次の瞬間、むささびが飛ぶに似た迅《はや》さで、奔《はし》った。  破《や》れ戸を蹴破って、白雲斎が、見出した光景は、原始のままの淫靡図《いんびず》であった。  全裸の女を、一瞥して山賊と知る男どもがむらがって犯していた。  一人は、ひき裂かんばかりに拡げさせた下肢の中に大胡坐《おおあぐら》をかいていたし、二人が、左右から、胸の隆起をむさぼっていたし、四人目は、おのが股間を、女の顔にあてがって、木の根瘤《ねこぶ》のような肉塊を、その口に押し込もうとしていた。  白雲斎は、意味をなさぬ凄じい叫びを迸《ほとば》しらせた。  生涯の憤怒を、この一瞬に聚《あつ》めた白雲斎の神速の跳躍は、山賊たちに、その場を動くいとまさえも与えなかった。  手剣が、下肢を裂いた男の首を刎《は》ねた。足剣が、口姦の男の背中を刺した。  そして、右手が、腰の一刀を鞘走《さやばし》らせて、乳房をむさぼっていた二個の首を、一閃のもとに、胴から截《き》った。  そして——。  四つの屍骸を、はねのけた白雲斎は、血汐をあびて仰臥《ぎょうが》した白い裸像を、茫然《ぼうぜん》と、見まもった。  女は、勝頼夫人であった。  おのれが、菩薩《ぼさつ》か女神のように神秘なものとして崇慕した美女が、斯くのごとく、無慚《むざん》に、弄《なぶ》られた!  ——あり得たことなのか!  白雲斎は、虚《うつ》ろに呟いた。  なまなましく、ぶっくりと盛りあがった臨月の腹部は、醜悪でさえあった。けがされた陰部も、穢《きたな》かった。  ただ、薄明りの中に、仄《ほの》かに浮いた細く通った鼻梁《びりょう》が、白雲斎の知る高貴な気品を、とどめているばかりであった。  ……はっと、白雲斎を、われにかえらせたのは、その大きな腹の山が、微かに動いたからであった。白雲斎は、いそいで、夫人の手を把《と》って、脈搏をかぞえ、まぶたを裏返して、瞳孔をしらべた。 「いかん!」  かぶりをふった白雲斎は、なんのためらいもなく、手剣の切っ尖《さき》を、その腹の山の頂きに、当てた。  肌は、ま二つに割れ、綿のような白い厚い脂肪《しぼう》が、めくれ上って来た。白雲斎は、その中へ、右手をさし入れた。  弱々しい泣き声とともに、ひとつの生命が、この世に出た。  猿飛佐助が、これである。  五  十五年の星霜《せいそう》が移った。  天下は変り、大和国|葛城《かつらぎ》の金剛山の山中に庵をむすんだ忍者も、枯木のように老い果てた。  白雲斎が、葛城に、終《つい》の栖《すみか》をさだめたのは、山頂に、役小角《えんのおづの》の作る法起菩薩・不動明王・蔵王《ざおう》権現の三尊をまつる金剛山寺があったからである。  役小角は、修験道の偶像であったが、また、忍者の守護神でもあったのである。  役小角は、中華《もろこし》より渡って来て、葛城山に住して、呪術《じゅじゅつ》を行っていた。ある時、一言主《ひとことぬし》神に、呪術をかけて、不動縛りにしてみせた。一言主神は、怨みをふくんで、文武帝に、讒《ざん》して、 「役の優婆塞《うばそく》は、国家を傾けんと謀る」  と、言上した。  文武帝は、勅を下して、小角を召した。小角は、捕えられんとするや、忽然として空に騰《あが》って、飛び去った。  官吏は計略をもうけて、その母を捕えた。  小角は、やむなく囚われて、配所伊豆の大島に、遠流《おんる》された。小角は、そこで、能《よ》く、鬼神を役使し、水を汲ませ、薪を樵《こ》らしめた、という。  役小角のごとく、呪術を使いたいという素朴な願望が、山伏と忍者に、嶺《みね》入りの修業をなさしめた、といえる。  白雲斎がむすんだ庵は、山伏が通る道すじを避けて、篠峯《しのみね》と葛城山との間の水越嶺の奥にあった。  その眼下には、大和・河内往来の古道がうねっていた。楠木正成が、吉野へ往来した道である。  十五年——白雲斎は、勝頼夫人の腹を割って、とり出した子を、育てることに、専念して来た。  もとより、ただの養育ではなかった。忍者とならしめるための苛酷《かこく》な修業を、強いたのである。  満三歳になるまでは、自然に生い育つままにすてておき、その誕生の日に、白雲斎は、飼いならした蝮《まむし》を、足指に噛みつかせてみた。  幼児は、泣きもせず、蝮の胴をつかんで、ひき離そうとした。それが叶《かな》わずと知るや、木ぎれを把《と》って、ひと打ちくれた。蝮が、撥《は》ねて、遁れ去るや、にこっとして、傷口を嘗《な》めた。  それを眺めて、白雲斎の肚《はら》は、決まったのである。  佐助と名づけられた少年は、大きな丸い目と、両頬に|えくぼ《ヽヽヽ》をもった、天性の愛嬌にめぐまれた貌《かお》だちであった。ただ、悲惨な母の因果を背負うたごとく、背中に瘤《こぶ》を負うていた。  少年は、白雲斎が強いる修業に堪えたのみならず、おどろくべき天稟《てんぴん》をもって、ことごとく会得《えとく》したのであった。  成年に達した佐助に、白雲斎は、もはや、教えることは、何ひとつなかった。  この日々——白雲斎は、佐助に、ただひとつの任務を与えておいて、おのれは、たまに、陽のあるうち、庵の上の巨巌《きょがん》の上に坐るほかは、終日、黙然と、炉端ですごしているばかりであった。  今日は、春風に誘われて、巨巌上に出ていた。白髪白髯の風貌は、古稀をこえたかともおぼしい。  義手義足は、疾《と》くにはずして、歩行は、杖にたよっていた。  空は、晴れわたって、わずかに、はるか西海の上に、一斑《いっぱん》の綿雲をとどめているのみであった。大和・河内・摂津の国々は、一望の内に在る。  陽が西に傾いた頃、白雲斎の半眼にほそめた眸子《ひとみ》に、下方の古道をせっせと登って来る佐助の姿が、映った。  その懐中には、妊婦の陰毛を、持っている筈であった。 「千石取り以上の武家屋敷に忍び入り、はじめて懐妊《かいにん》した奥方の陰毛を奪って参れ」  一年前の春のある夜、白雲斎は、何気ない口調で、そう命じたのであった。爾来《じらい》、佐助は、一夜も欠かさずに、山を降りて行き、すでに、百本以上を聚《あつ》めて来ていた。  これは、生涯ついに女人に接しなかった白雲斎の、陰湿《いんしつ》な復讐心が思いついた変態的趣向であったろうが、佐助に忍びの術を修練させるに、これ以上巧妙な手段はなかった。  はじめて妊娠した若女房は、どこの家でも大切に扱われる。まして、千石取り以上の武家ともなれば、世嗣《よつ》ぎを期待するのであるから、周囲の神経が四六時中、その身に配られている。これを襲って、陰毛を奪うのは、容易の業ではない。  まず、いずこに、初妊婦がいるか、を探索するのさえも、厳重な秘密主義の武家屋敷であれば、困難なのである。  わずか一年のうちに、百本以上を聚めたのは、おどろくべきことであった。  実は、白雲斎は、二十歳の頃、これを為《な》して、一年に三十本も聚《あつ》め得なかったのである。  しかし、白雲斎は、一言も、佐助をほめていなかった。  じっと、視線を投げていた白雲斎は、佐助が遊び仲間の小猿が、迎えに降りて来たのへ、何やら愉《たの》しげに、にこにこと話しかけるや、かっと双眸を剥《む》きざま、かたわらの杖を把って、びゅんと放った。 「おっ!」  佐助は、ぱっと身を沈めて、飛矢のように唸って来た杖を、片手掴みにするや、かるがると投げかえした。  白雲斎は、飛びかえって来た杖を、手刀で搏ち落した。足もとにころがったのは、意外にも、いつの間に佐助がすりかえたか、いっぴきの蛇《くちなわ》であった。  この宵、夕餉《ゆうげ》を摂《と》り了えてから、白雲斎は、 「佐助、わしの死期も、間近になったらしい」  と告げた。  佐助は、揃えた膝へ両手を置いて、丸い目を据えた。 「お前が、武田勝頼殿の御曹子であることは、すでに教えた。しかし、お前に、武田家を再興し、一国一城のあるじになる器量はない。いや、大名の旗本になるさえ、おぼつかぬ」 「………」 「なぜ、なれぬか、おのれ自身で、わかるか?」  じろりと、冷い眼眸《まなざし》をくれた。曾《かつ》て、ただの一度も、白雲斎は、佐助に、笑顔を見せたことはなかった。 「わかりませぬ」  佐助は、かぶりをふった。 「お前の祖父武田信玄殿は、仏教信者とみせかけて、実は古今比類のない奸佞邪智《かんねいじゃち》の悪党であった。お前は、その血を一滴もひいて居らぬ。信仰に対しては無心であり乍ら、あまりにも気象が善良にすぎる。莫迦《ばか》と申してもよい」 「………」 「お前が、生きるすべは、清廉潔白《せいれんけっぱく》の名将に仕えて、その善良を愛されることであろう」 「………」 「さしずめ、見わたしたところ、お前が仕えるべき人物は、真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》であろうか」  六  三日後、佐助は、十五年間生い育った山を出て行って、再び還らぬことになった。  しかし、師との別離は、まことに淡々としていた。  炉端に、黙然と坐っている白雲斎に、 「では、行きます」  と、頭を下げると、 「うむ——」  炉火へ視線を落したままの、軽い頷《うなず》きが、かえされただけであった。  佐助が、土間へ降りて、もう一度、こんどは、黙って、頭を下げた時、ぽんと、一巻の巻きものが、抛《ほう》られた。 「持って行け」  白雲斎は、何を記してあるとも教えずに、云った。 「はい」  佐助も、きかずに、おし頂いて、懐中にした。  佐助は、しかし、山を下りはじめると、別離の哀しみに怺《こら》えかねて、いくども、頭《こうべ》をまわした。  庵の上の巨厳に、師の姿が現れるのではなかろうか、と期待したが、ついに、みとめることはできなかった。  金剛山より西に下れば、水分《みくまり》の社に至る。これは本道で、坂は六十町もある。  坤《ひつじさる》の方へ下ると、三十町あまりで、千早村に至る。  これは脇道で、地下人《じげびと》は、正成道と称《よ》んでいる。  佐助は、正成道をえらんだ。その路上へ降り立ってから、はるかになった庵にむかって、声いっぱいに、 「さようなら!」  と、三度ばかり、叫んだ。  それから、こんどは、もう振りかえらずに、すたすたと、足をはやめた。  半里ばかり辿ってから、佐助は、はじめて、人と行き会うた。  しかも、ただの人ではなかった。身なりは郷士風で、筒袖に、くくり袴《ばかま》であったが、背中に、四尺以上もある長い太刀を負うているのが怪しく、また、醜《みにく》く片目のつぶれた風貌も険《けわ》しかった。  ぎろっ、と隻眼の光を当てられた瞬間、佐助は、なんとも名状し難い嫌悪感で、鳥肌がたった。  すれちがって、十歩あまり遠ざかってから、振りかえると、期せずして、相手も、頭をまわしていた。  佐助は、再び、総身を粟だてた。  ——わしの祖父《じい》さまも、あんないやな奴だったのだろうか?  歩き出し乍ら、そう考えた。  佐助が突然不吉な予感に襲われたのは、千早村へ出てからであった。  村中の辻で、足を釘づけた佐助は、  ——あいつ、お師匠さまのところへ行ったのではあるまいか?  と、大きな黒瞳《くろめ》を、宙に据えた。  次の瞬間、佐助は、ぱっと身をひるがえすや、旋風《つむじ》のような勢いで、いま来た道を、奔《はし》り戻って行った。  予感は、適中した。  老師は、依然として、炉端の同じ位置に坐っていたが、顔面から胸にかけて、蘇芳染《すおうぞ》めに血塗れていた。  白雲斎は、目蓋《まぶた》をとじたままであったが、土間に棒立ったのを佐助とさとって、 「なぜ、戻って来た?」  と、細い嗄《かれ》声で、咎《とが》めた。 「お師匠さま! あいつはどこじゃ?」  白雲斎は、しかし、すぐには、こたえず、間を置いてから、 「お前には、まだ、地獄百鬼は、討てぬ」  と、いましめた。 「いいや討つ! 討ってみせる!……お師匠さま、あいつが、どこへ去《い》んだか、教えて下され!」 「佐助——」 「はい!」 「地獄百鬼を、討ちとるには、お前には、ただひとつの業《わざ》しか、ない。……猿飛じゃ」  その教えに、佐助は、目を大きく瞠《みは》った。 「彼奴《きゃつ》は、たぶん、山頂に在ろう。開山堂で、役行者《えんのぎょうじゃ》の遺像に、わしに勝ったよろこびを、告げて居る」  それをきくや、佐助は、飛鳥のように跳んで、壁に架けられた黒塗りの忍者槍二本を掴《つか》みとった。 「お師匠さま! 待っていて下され」  佐助が、密林の中を駆け抜けて、金剛山寺の境内へ達するには、今日の時間にして、ものの五分も要しなかった。  ——いたぞ!  佐助は、開山堂前に彳《たたず》む、四尺の大太刀をせおった巨躯《きょく》を見出すや、にことした。  佐助の気配を、そこに察知したわけではなかったが、異常にとぎすまされた忍者の神経が、地獄百鬼を、じろっと、振りかえらせた。  しかし、間髪の速さで、佐助は、そこから消えうせていた。  百鬼が、ゆっくりと踵《きびす》をまわして、歩き出そうとした——瞬間。 「地獄百鬼!」  勇気をみなぎらせた明るく冴《さ》えた呼び声が、開山堂の屋根から、あびせられた。  ぱっと向きなおった百鬼にめがけて、 「猿飛佐助、見参《げんざん》!」  叫びざま、鴟尾《しび》を蹴って、陽の盈《み》ちた空中へ躍り出た。  その両足に、それぞれ、一本ずつ忍者槍を履《は》いて居り、双手は高だかと、つばさのようにひろげていた。(いうならば、スキーのジャンプのさまを想像ありたい) 「おっ!」  百鬼は、咄嗟に、一間を跳び退りざま、背中の大太刀を抜きはなった。  しかし、百鬼が、その距離を跳び退るであろうことは、佐助の計算のうちにあった。  陽光に煌《きらめ》きつつ、飛び来る二本の忍者槍の穂先の、鋭い白い光が、百鬼のこの世で見た最後のものであった。  その一槍を大太刀で払うのと、一槍が、貴重なのこりの一眼へ、ぐさと刺し立つのが、同時であった。  とともに——。  佐助は、百鬼の頭上を躍りこえて、二間のむこうへ、ぴょんと、降り立っていた。 「わっぱっ! 来いっ!」  槍をまなこから抜きすてるや、血だらけの顔面を、ひとふりして、大太刀をかざして、吼《ほ》えた姿は、阿修羅《あしゅら》がこの世にあるものなら、まさしく、これかと思われた。  佐助は、すこしずつ、あと退り乍ら、思った。  ——盲《めしい》になっては、忍びの役にも立つまいぞ。  とびかかって、息の根を止めてやる非情が、この少年になかったのは、戦国の世に生きる闘士として遺憾であった。  白雲斎は、この善良なるが故に、一国一城のあるじになれぬ、と能く看破《かんぱ》していたのである。 「待て、遁《に》げるかっ!」  呶号《どごう》をききつつ、佐助は、まっしぐらに草庵めざして、駆け戻って行った。  しかし——。  炉辺に、すでに、老師の姿はなかった。ただ、炉の中に組まれた薪《たきぎ》が、ひとつの文字を書いて、燃えつづけていた。   無  それであった。  佐助は、しばらく、ぼんやりと、その炎文字を眺めていたが、ふと気がついて、ふところから、別れぎわに白雲斎が抛《ほう》ってくれた巻物を、とり出して、くるくると披《ひら》いてみた。  それには、佐助にだけ判る忍法極意の四十八手が、絵形で、記されてあった。筆で記したのではなく、佐助がぬすんで来た初妊婦の陰毛を膠付《にかわづ》けしたものであった。  半刻後——。  正成道を、すたすたと降りて行く佐助の姿が、見られた。  山は、一人の小さな忍者を生長させ、送り出し乍ら、明るく、ひっそりと、しずまっていた。   霧隠才蔵  一  慶長五年九月一日。  真田安房守昌幸《さなだあわのかみまさゆき》は、信州上田城の本丸前の広庭で、悠々《ゆうゆう》と、強弓《ごうきゅう》を引いていた。  すでに、城は、徳川秀忠の率いる三万八千の大軍に、ひしひしと包囲されていた。  石田三成が、徳川家康打倒の軍を起すにあたり、真田昌幸は、次子|左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》とともに、大阪方に加わったのであった。  沼田城に在る長子|信之《のぶゆき》は、徳川方へついていた。信之は内府(家康)から恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》っていたし、その妻は、本多忠勝の女《むすめ》であり、家康の曾孫《そうそん》に当っていたからである。  昌幸は、石田三成を好きではなかったが、徳川家康は、もっときらいであった。  昌幸の任務は、この上田に、秀忠の軍をひきつけておくことであったので、城を包囲されるにまかせて、自若《じじゃく》としていた。いかほどの大軍に攻撃されても、ビクともせぬ自信があったし、ひとたび城門をひらけば、縦横無尽に反撃する疾風の用兵策《ようへいさく》も成っていたのである。  強弓から放たれる矢は、その自信を乗せて、秋の澄んだ陽ざしの中を、唸りをたてて、目に見えぬ軌道をすんぶんの狂いもなく奔《はし》っていた。  十間の彼方の巻藁の標的には、すでに、十余本の矢が、ことごとく、中点に射立っていた。  最後の矢を、強弓にあてがった瞬間、昌幸は、ふと、なぜか、これ一本だけは、的に当らないような気がした。そして、もし当らなければ、真田家は、滅び去るのではあるまいか、という不吉な予感をおぼえた。智謀天下に鳴る武将は、これを怯懦《きょうだ》が生じたのだ、とおのれに怒るや、 「八幡!」  と、ひくく叫んで、ひょうと、射放った。  矢は、先の矢たちが奔った宙線《ちゅうせん》をみじんの差異もなく、飛んだ。しかし、昌幸の不吉の予感に応《こた》えるごとく、的には、中《あた》らなかった。  何処からともなく、飛んで来た一個の赤い物が、その走路をふさいだからである。  矢は、的に当るかわりに、それを、ぐさっと、つらぬいた。それは、能く熟した柿の実であった。  さらに、昌幸を驚かせたのは、矢が地面に落ちる前に、風に似た迅さで、疾駆してきた小さな人影によって、むずと、掴まれたことであった。柿の実を投げたのは、その者に相違なかった。  飛矢《ひし》にむかって、柿の実を投げて、これをつらぬかせ、しかも、それを、駆け寄りざま、宙で受けとめるとは、三嘆すべき業《わざ》の持主であった。  ところが、ひょこひょこと昌幸に歩み寄って、跪《ひざまず》き、矢を捧げた風体は、いかにもむさくるしく、泥くさい下人《げにん》以外の何者でもなかった。矮小《わいしょう》の躯《からだ》は、せなかに瘤《こぶ》まで負っていた。  ただ、顔を伏せて、声がかかるまで擡《もた》げようとしないたしなみは、士《さむらい》のものであった。  昌幸は、こんな小者に、真田家の命運を阻止されたことに、かなりの不快をおぼえた。 「おのれは、徳川方の忍びか?」 「さあらず、流離者《さすらい》にござる」 「顔を擡《あ》げい」  昌幸は、ひょいと仰向いた貌《かお》を一瞥《いちべつ》して、いかにも憎めない愛嬌のあるその造りに、思わず、髭頬《ひげほお》がゆるむのをおぼえた。そのふしぎな魅力の大部分は、澄んだ光を湛《たた》えている丸い大きな双眸で占められていた。昌幸は、かほどまでに、無心な美しさをもった眸《め》を知らなかった。おそらく、生れてまだ一度も、人をも、おのれをも、いつわったり、だましたりしたことがないに相違ない。  年齢はまだ、二十歳に満たぬであろう。 「名は?」 「猿飛佐助《さるとびさすけ》と申します」 「こんたんあっての悪戯《あくぎ》か?」 「真田左衛門佐幸村様とお見受けいたしましたので、いささかの業をお目にかけて、家来にして頂きたく存じ、無礼を働きました」  ——こやつは、おのれ自身露知らずして、真田家を滅亡させる悪魔の使いとして、舞い込んで来た。  昌幸は、胸中に呟いた。  悪魔の使者は、しばしば、最も善良な姿に化けて、現れるものである。  ——こやつを、幸村に仕えさせてはならぬ!  昌幸は、そう思った。 「わしは、城主真田安房守だ」 「はあ! これは、しもうた」  佐助は、ぱちぱちと、まばたきした。とまどったその表情に、なんとも云えぬ明るさがあった。 「佐助——」 「はい」 「真田の家臣たらんには、放下師《ほうげし》の辻芸のごとき業を見せたぐらいでは、叶わぬぞ。戦《いく》さにおいて、堂々の手柄をたてい」 「はい」 「もし、わしが命ずる働きを示さば、幸村に推挙《すいきょ》してつかわそう」 「有難き仰せ、何卒お命じ下され」  佐助は、平伏した。 「寄手の先鋒石川|玄蕃《げんば》の麾下《きか》に、山田仁左衛門長政という若武者がいる。これと一騎討ちして、生捕って参れ。但し、その方は、一切武器を使うことはならぬ。素手《すで》をもって、生捕るのだ。よいな!」 「かしこまってそろ」  佐助は、即座に承知した。  二  昌幸が佐助に討ちとらせる対手として、その若武者をえらんだのは、次のような壮快な逸事《いつじ》があったからである。  寄手の先鋒石川玄蕃は|冠ヶ嶽《かんむりがたけ》に陣を敷いたが、上田城の防備が意外にかたく、ほんの二三日の日子をもってこれを抜いて、関ヶ原の合戦に参加しようという心算《しんさん》でいる秀忠に、それは不可能であることを急報しなければならぬと思い、麾下から、山田仁左衛門長政をえらんで、遣《つかわ》した。  仁左衛門長政は、まだ二十歳を出たばかりであったが、六尺を越える巨躯で、胆力腕力は、百人のそれを合せている、と称されていて、事実、これまでの合戦で、凄じいばかりの勇猛振りを発揮していた。  長政は、かしこまって蘆毛《あしげ》の駿足《しゅんそく》をまっしぐらに駆《か》ったが、この土地の案内に昏《くら》く、忽ち、道に迷った。  台地に馬を乗り上げて、小手をかざしてみたが、彼方の密林の上に上田城の天守閣がわずかにのぞいているのをみとめたばかりで、えらぶべき道すじは不明であった。 「さらば!」  不敵にも、長政は馬腹を蹴って、矢のごとく、上田城へむかって、飛んだ。  城門の前に、駒を進めるや、大音声をはりあげて、 「物申す! それがしは、寄手の先鋒石川玄蕃が麾下山田仁左衛門長政にてそろ。急用あって、主君江戸中納言(徳川秀忠)が本陣へ、馳せ戻らんとする者なれど、この土地の案内は一向存ぜざるにより、うろたえて、迂回《うかい》せば、道遠くして往復の時間を要すべし。武士の仁義をもって、この城中を通らしめたまわらば、搦手《からめて》よりの道は、心得あり、すみやかに、本陣に至《いた》り申さん。何卒、お通し下されたい」  と、うそぶいた。  まことにもって、図々しい依頼であった。おのが先陣からおのが本陣へ趨《はし》るために、敵城を通させて欲しい、というのである。  昌幸は、これを取次がれると、高い声をあげて笑って、自ら、城門横手の石塁の上に出て、 「山田仁左衛門長政、その胆気《たんき》の勇壮は、手を拍《う》って、賞讃するに足りるぞ。通るがよい」 「有難し! さらば、このたび通したまわらば、還りにもまた、ここを通したまわるべし」  長政は、昌幸はじめ、城兵らの見守る中を、悠々と、馬を駆け通らせた。  その夜半、長政は、再び搦手に現れて、門扉《もんぴ》を敲《たた》いて、打通ることを請《こ》うた。  昌幸は、侍大将に命じて、長政を本丸に招くと、この城中を往復打通る上からは、要害ことごとくを覚えて置こうとする存念もあろう、しからば、城攻めの時は、かまえて、他人に一番乗りを奪われまいぞ、と云った。  長政が、もとよりのことと、一番乗りを誓うや、昌幸は、笑い乍《なが》ら、 「お主《ぬし》のような猛者《もさ》を、味方につけんには、いかがいたせばよかろう?」  と訊ねた。  すると、長政は、にやりとして、 「生捕り召されい。虎も、首尾を垂れて、従い申す」  と、こたえたものだった。  大手門を左右に開かせて、月下をいっさんに駆け出て行く騎影を、石塁上から見送り乍ら、  ——彼奴《きゃつ》を生捕ることは、幸村の智慧をもってしても、不可能であろう。  昌幸は、そう思ったことである。  いま、ふと、思いついて、猿飛佐助と名のる若い|せむし《ヽヽヽ》の流離者に、その難役を命じた昌幸は、その面白さに、微笑を禁じ難かった。  三  真田左衛門佐幸村は、この時、恰度《ちょうど》三十歳であった。  真田家は美丈夫《びじょうふ》の系統で、幸村の祖父|幸隆《ゆきたか》が、主家の武田家へ伺候《しこう》すると、女たちの吐息が城内に盈《み》ちた、と誇張されたくらいである。  幸村の伯父信綱・昌輝が、長篠《ながしの》の合戦で討死した時、それぞれの侍女が、三人ずつ、世をはかなんで自害して果てている。  父昌幸、兄信之ともに、その系統に慙《は》じぬ美丈夫であったが、とうてい、幸村には及ばなかった。  秀麗《しゅうれい》という形容は、幸村のためにつくられたか、と思われるほど、その面貌《めんぼう》は、気品たかく、美しかった。十六歳で、越後の上杉景勝の許へ、質子《ちし》として送られたが、景勝は、そのあまりの美しさに、目上の貴公子に対する口のききかたをして、苦笑したものであった。  その幸村が、わが妻には、天下一の醜女《しゅうじょ》をと望んで、大谷吉継《おおたによしつぐ》の女婿となったのも、おのが美貌に恋する女《むすめ》があまりにむらがりすぎて、これをしりぞける奇手《きしゅ》であったといえる。  大谷吉継は、世にも醜い面貌であったばかりか、癩《らい》をやんで、壮年に及んで、頽《くず》れ爛《ただ》れて、常に浅葱《あさぎ》の絹の袋で匿《かく》し、人との面談にも、紙帳を隔てて対した。その父に似た醜女を妻にするのは、よほど男気が必要であった。  幸村は、妻を迎えてすでに七年になるが、いまだに妾を置かず、この上なく優しい良人《おっと》であった。  籠城してからも、そのもの静かな生活はすこしもかわらず、具足をつける時も殆どなく、居室に在って、書見に余念がなかった。  父昌幸の方が、時折、その居室に足をはこんで、作戦、謀攻、軍形、兵勢、虚実、軍争、九変などについて、質問を発し、幸村の明確な返答を得ているあんばいであった。  いまも、深更を迎え乍ら、幸村は、経几《きょうづくえ》にむかって、孫子を披《ひら》いていた。  ふと背後に、人の気配があるような気がして、幸村は、頭をまわした。  仄《ほの》暗い下座にちょこんと一個の黒影が坐っていた。  凝《じっ》と、見すえた幸村は、 「その方、猿飛佐助か」  と、云いあてた。  実は、父昌幸の身辺を、ひそかに守らせている忍びの者から、昼間の出来事を報告されていたのである。  佐助は、黙って平伏した。 「四年ばかり前、そちの師戸沢白雲斎より、手紙を受けとって居る。あまりにも、気象が善良にできすぎている由だな」  そう云って、幸村は、微笑した。 「女々《めめ》しゅうは生れて居りませぬ」  佐助は、不服げにこたえた。 「よい。善良の性《さが》が、長寿を保たせよう。この幸村の菩提《ぼだい》を弔う役として、そちは、やって来たのかも知れぬ。仕えてくれい」 「お仕えするには、山田仁左衛門長政なる武者を生捕らねばなりませぬ」 「長政は六尺余の巨漢で、膂力《りょりょく》は、百人のそれに匹敵すると云われて居る。素手で、生捕る方法があるか?」 「ありまする」  佐助は、打てばひびくようにこたえて、 「おそれ乍ら、城中第一の美しい女子《おなご》を一人、お貸し下されませい」  と、申出た。  それから二日後の朝ぼらけ、山田仁左衛門長政は、ただ一騎で、上田城の城門へ向って来た。  昌幸の署名をもって、 『貴殿を生捕り申すべく、当方より勇者一名を送り出し候えば、すみやかに、明朝大手門へ、駒を進められたし』  という一書が、昨夜、陣営へ届けられたのである。 「この長政を生捕って足下《そっか》に据えようとは、小面《こづら》憎し!」  長政は、夜明けを待って、陣営をとび出して来たのである。  城は、霧の中に、おぼろに溶《と》けて、森《しん》としずまっていた。  長政は、大音声をあげて、到着を告げた。  すると、門扉が軋《きし》りつつ、左右に開かれた。  長政の闘魂がうつったか、城門内から迸《ほとばし》る殺気をあびたか、蘆毛の駿馬《しゅんめ》は、狂おしく、いなないて、いくども、棹立《さおだ》った。 「ござんなれ!」  長政は、大身《おおみ》の槍を躍《おど》る馬上で、しごいた。  不意に——。  蹄《ひづめ》の音が起って、一騎、城門内から、奔り出て来た。  さっと、穂先をつけた長政は、次の瞬間、大きく目を瞠《みは》って、唖然《あぜん》とした。  栗毛の駒を駆って、出現したのは、意外にも、一糸まとわぬ裸女だったのである。  長政は、滅法強かったが、きわめて単純な若者であった。そして、膂力がありあまっているだけに、本能の欲情も烈しく、毎夜、おのが手で、木瘤のような男根を摺《す》り扱《しご》く営みを欠かせないくらいであった。  霧のような青白い柔肌をおしげもなく、秋冷の空間に躍らせて、まっしぐらに近寄られては、これを奇策と判断する余裕もなく、ごくっと生唾を嚥《の》み込んだ。  黒髪をなびかせたその貌《かお》が、たぐいなく美しかったのも、長政の魂を奪うに効果があった。  豊かな胸の双《ふた》つの隆起と、大きく拡げられて、馬腹をはさんだ太腿から脚にかけての、すんなりと延びた白い線が、長政の目を晦《くら》ませた。  衝突せんばかりに、疾駆《しっく》して、さっと、脇をすり抜けて行こうとするや、長政は、これを罠《わな》と顧慮《こりょ》するいとまもなく、猿臂《えんび》をのばして、裸女を、奔馬《ほんば》の上から、奪いとった。  馬腹の真下に、守宮《やもり》のように吸いついていた黒い影が、一瞬、おのれの馬の腹下へ、ぱっと、飛び移ったのに、長政は、全く気がつかなかった。 「この長政には絶好の引出物、まさしく、頂戴つかまつった」  そう叫んでおいて、長政は、さっと馬首を向けかえようとした。  刹那——頸すじへ、氷のような冷たい刃をぴたっと当てられた。 「おしずかに! 城内へ、お進み召され」  きめつけられて、長政は、はじめて、愕然《がくぜん》と、われにかえった。  瘧《おこり》のような、憤怒《ふんぬ》と無念の顫《ふる》えが、全身に起った。  どうして、湧くがごとくに、おのれの背中へ、この敵がぴたっと吸いついたのか、長政には、見当がつかなかった。この当惑が、憤怒はしたが、無暴な逆上の振舞いを長政にさせなかった。  見事に、生捕られたのである。  長政は、門内へ馬を進み入らせた。  長政が、昌幸の面前へ、大胡坐《おおあぐら》をかきながらも、なおまだ、裸女をしっかりと小脇にかかえていたのは、少年が折檻され乍らも、盗んだ菓子を掴《つか》んではなさない図に似ていた。  四  長政は、そのまま、城内へとどめられた。  十月上旬にいたり、秀忠は、大久保|忠隣《ただちか》、本多正信、仙石忠俊らの部隊をもって、上田城を遠巻かせておき、独り中軍を率《ひき》いて、急遽《きゅうきょ》西上した。しかし、関ヶ原に到着したのは、この月十七日、即ち天下を分けた合戦の終了した翌々日であった。  大権《たいけん》が、徳川家康の掌握《しょうあく》に帰した以上、昌幸父子は、籠城の意義を喪《うしな》った。  籠城に疲れた全将兵を、沼田城の長子信之に引渡すと申出て、昌幸父子が、十数人の近侍のみをともなって、上田城を出たのは、霜月のある夜であった。  落ち行くさきは、高野山であった。家康から、そう命じられたのである。  一行の殿《しんがり》を、凄い巨躯ときわめて矮小《わいしょう》の、対蹠《たいせき》的な若者二人が、ついて行くのが、甚《はなは》だ目立った。  京の都に入った時、昌幸は、長政にむかって、 「お主は、真田家に仕えているわけではない。配所へ跟《つ》いて来るには及ばぬ故、何処の地へでも参って、驥足《きそく》を展《の》ばすがよかろう」  と、申しわたした。 「行くところが、ござらぬ」  長政は、憮然《ぶぜん》として、こたえた。  裸女に目晦《めくら》んで生捕られたのである。この大恥を背負うて、いずこの武将にも仕える気はしなかった。  昌幸は、ちょっと考えていたが、 「お主の巨躯には、日本は狭かろう。朱印船に乗って、海のむこうに渡るか」  と、云った。 「おう! それこそ、それがしの望むところでござる」  長政は顔をかがやかした。 「先年、太閤殿下の忌諱《きい》にふれて、一家没落の悲運に遭《お》うた堺の商人|呂宋《ルソン》助左衛門が、いまは柬埔寨《カンボジャ》国に在る、と風の便りにきいた。助左衛門に、手紙を書こう」 「忝《かたじけ》のうござる。されど、柬埔寨国と申すのは、どれくらい遠方でござろうか」 「ざっと、千八百里の彼方に在る」 「千八百里!」  長政は、目を剥《む》いた。  しかし、すぐ、莞爾《かんじ》として、頷《うなず》いた。 「千八百里の波涛をこえて、その国へ参り、あわよくば、頭領にのし上り申す」  そう嘯《うそぶ》いてから、じろっと、かたわらの佐助を見下し、 「どうだ、佐助、一緒に参らぬか?」  とすすめた。  佐助は、黙って、かぶりを振った。  呂宋助左衛門は、海賊より転じて貿易商人となった一代の奇傑であった。  助左衛門が、一挙にして鉅万《きょまん》の富を獲たのは、呂宋の壺をもたらしたからである。当時、千宗易《せんのそうえき》の出現によって、非常な勢いで茶の湯が流行し、武将らは、茶器の珍奇なるのを蔵するをもって誇りとし、高麗の茶碗、呂宋の壺を最も欲しがり、愛玩《あいがん》していた。助左衛門が、これを多量に持って来たときいて、諸将が、どんなに、手に入れようと争ったか、想像に難くない。  太閤秀吉は、この壺を日本国の宝物とする、と称して、助左衛門から、悉《ことごと》く召上げた。助左衛門が、獲た報酬は、莫大であった。六十万石の大名がたくわえる軍用金に匹敵する巨額と、噂された。  助左衝門は、この金を湯水のごとく費《つか》って、聚楽《じゅらく》の邸第《ていだい》、桃山の城の華麗にせまる屋敷を築き、飲食|起臥《きが》に奢侈《しゃし》をきわめた。  この豪奢が、堺の代官のきもをうばい、僭上《せんじょう》の沙汰として、嫉視するところとなったのは、当然である。  助左衛門は、ひとたび、秀吉の忌諱にふれるや、その処刑を待たずに、居宅を大安寺に寄進し、家財を故旧に散じて、おのが身ひとつを、飄然《ひょうぜん》として、故国の山河から消し去ったのである。  真田昌幸は、助左衛門が、呂宋の壺をもたらす前から、親交があった。  巨富を獲てから、助左衛門は、笑い乍ら、昌幸に云ったことがある。 「あの壺は、呂宋にあっては、露天の市で、山と積まれて、鐚銭《びたせん》で売られている代物でござる。呂宋人どもは、ものぐさ故、居室で、糞尿をすませ申すが、あの壺はその便器で、溜ったならば、外へ抛りすてて、ぶち毀してしまうのでござる。……便器で、大金持となり申した罰は、そのうちに、必ず、受け申そう」  すでに、豪奢の頂上にあって、助左衛門は、おのが没落を、見通していたのである。  山田仁左衛門長政は、昌幸がしたためた助左衛門宛の手紙を懐中にして、堺の港から、柬埔寨行きの朱印船に乗り込み、ついに、再び、日本へは、還らなかった。  五  真田昌幸・幸村父子が、高野に入って得度《とくど》し、父は一翁閑雪《いちおうかんせつ》、子は伝心月叟《でんしんげっそう》と号し、山麓北谷の九度山《くどさん》に隠栖《いんせい》してから、はやくも、二年の月日が流れた。  ここ——堺の港町は、今日も、異国の匂いを満たして、にぎわっていた。  徳川家康は、秀吉の政策を継承して、切支丹の禁制を厳にしつつも、朱印船を海外に遣《つかわ》すことだけは盛んにしていたからである。  春の一日、異人も交えて雑沓《ざっとう》する市小路を、ひょこひょこと、所在なげな様子で歩いて行く猿飛佐助の姿が見出された。  この|せむし《ヽヽヽ》の若者に、誰一人、目をとめる者はいなかった。  最近、この堺の大商人一族である納屋衆《なやしゅう》の大邸宅に、つぎつぎと忍び入って、大判函《おおばんばこ》をかすめ盗《と》って行く怪盗が、実は、この矮小の小者である、と告げても、誰も信じはすまい。  当時、天下随一の金持といえば、この堺を、諸侯に一指だにふれさせぬ勢力を有する納屋一族であった。市小路、甲斐町、材木町、中浜に、それぞれ数千坪の大邸宅を構えて、浪士千余を養って万一に備え、数十艘の朱印船を擁《よう》し、織田信長時代から、金権をもって、覇権に、拮抗《きっこう》して、一歩もゆずらなかったのである。左衛門佐幸村は、やがて、徳川家康が、豊臣家をとりつぶし、天下をおのが子孫に伝えて、大軍を催すであろうと、洞察《どうさつ》して、その秋《とき》にそなえて軍資金をかせぐべく、佐助に、堺納屋衆の貯金をかすめ盗るように、命じたのである。  佐助は、すでに二十余の大判函を盗って、九度山へはこんでいた。  市小路をぬけると、すぐに、海辺である。  安南《アンナン》から、呂宋《ルソン》から、暹羅《シャムロ》から、柬埔寨《カンボジャ》から、還《かえ》って来た朱印船が、錨《いかり》をおろして、憩《いこ》うている。  いずれも、|ふすた《ヽヽヽ》船といい、長さ三十間、幅九間、四百人から五百人乗りの巨船である。船首《みよし》には、八幡大菩薩の旗をかかげ、帆柱には、それぞれの家号を、丸の中に染めぬいた幟《のぼり》をかかげている。なかには、燃えるような日の丸の大旆《たいはい》をひるがえしている船もある。  佐助は、日に一度は、この海辺へ出て、一刻あまり、汐風に吹かれ乍ら、放心している愉《たの》しみをもった。  佐助は、海が好きであった。  もし、幸村に家来の誓いをしていなければ、長政とともに、万里の波涛をこえて、行ったに相違ない。  海原の無限のひろがりは、悠久《ゆうきゅう》の山容《さんよう》とともに、佐助の心を、全く無心の境地に惹き入れてくれるのであった。  じっと、対していて、いつまでも、倦《あ》くことがなかった。  ふと——。  佐助の無心を擾《みだ》すものが、前方に、出現した。  どうやら、還り着いたばかりらしい朱印船の船上に、ひとつの際立った人影が、出て来るや、ぱっと、舷《ふなばた》に跳びあがって、声をはって、空の雲を呼ぶように、ひと声ながく、叫んだ。  佐助の全身が、にわかに、ひきしまった。  それは、ただの声ではなかった。一里、いや二里の彼方に在っても、きく耳を持てば、はっきりとききとれる声であった。生来の声か、きたえた声か。  佐助は、東の空に、一点の|しみ《ヽヽ》のように黒いものが滲《にじ》み、それが、みるみる近づくのを、看《み》てとった。  一羽の巨《おお》きな鷲であった。  筵《むしろ》を搏《う》つような音をたてて、はばたき乍ら、船上へ舞い降りて来るや、これを呼んだ舷《ふなばた》に立つ人影は、大きく躍《おど》って、その足を掴んだ。  鷲は、その呼び人を、宙に釣りつつ、斜線を曳いて、陸《おか》へ飛んで来た。  人影は、三間の空中で、鷲の足をはなすと、かるがると、砂地へ立った。六尺をこえている長身であった。  虎皮の袖なし羽織をまとい、大小を佩《は》いた武士のいでたちであったが、意外にも、総髪にむすんだ髪は褐色であり、鼻梁《びりょう》高く、これは、うたがいもない異邦の人物であった。  佐助は、自分と同年配ぐらいではないか、と看てとった。  ——毛唐人《けとうじん》のくせに、さむらいのいでたちをするとは!  なかばあきれ乍ら、悠々と、街なかへむかって行く後姿を見送った。  巨鷲は、なお、中空を、大きく弧を描き乍ら、舞うていた。思うに、海のむこうから飼いならして、連れて来たに相違ない。  佐助という若者は、奇妙なことに、その性情から、好奇心とか詮索《せんさく》癖とか競争精神とか、いったものをそっくり脱落させていた。師や主人から命じられたことならば、水火を辞せず、平然として、身を挺《てい》するが、おのれ自身の希望とか欲求が皆無にひとしいために、常に、おのが意志による行動は、甚だ淡泊であった。  異様な技をそなえて、この日本へ乗り込んで来た異邦の若者に対して、当然起すべき好奇心も競争精神も、佐助の胸中には生れなかった。  ただ、黙って、見送ったばかりである。  ところが、その異邦の若者こそ、佐助にとって、生涯の競争相手として渡来して来たのであり、いわば、これは、宿命的な出会いだったのである。  二度目に、佐助が、その若者に出会ったのは、それから三日後、甲斐町にある納屋助四郎の宏壮な屋敷内に、忍び入った深更《しんこう》であった。  その夜もまた、佐助は、大判函を二つか三つ、かすめ盗る計画であった。  宵のうちに、天井裏に忍び入って、建物の構造及び人数とその居場所を調べておいて、更けるまでの幾刻かを、太い梁《はり》に横臥《おうが》して、仮睡《かすい》をとっていた佐助は、不意に、下から、寒風が吹きあげて来るような、ただならぬ気配を感じて、むくっと起き上った。  下は、この家の主人助四郎の寝室であった。  隙間から覗き下した佐助は、そこに立っている異邦の若者を見出して、目を瞠《みは》った。  六曲屏風をへだてて、助四郎は、その妻と同衾《どうきん》して、ふかい睡りの中に在った。  若者は、ゆっくりと屏風をまわって、枕元に立つや、夫婦の寝顔を、見下していたが、いきなり、助四郎の枕を蹴とばした。  前述したごとく、納屋衆は、ただの商人ではなかった。  寝首をかかれる万が一の危機にそなえて、褥《しとね》の中に、太刀を匿《かく》していた。  はね起きて、その太刀を掴みとったが、抜き放ついとまはなかった。  鼻さきへ、侵入者の剣が、突きつけられたからである。  ただの剣ではなく、幅のせまい、双刃の、槍に似た直刀であった。切っ先は、針のように細かった。  燭台の炎のまたたきに、濃い陰翳を揺れさせる異邦の貌《かお》を、助四郎は、奇怪なものに視て、あっと、息をのんだ。  妻女は、小さな悲鳴をあげて、助四郎の背中へ、しがみついた。 「納屋助四郎だな?」  若者は、明瞭なこの国の言葉で、たしかめた。 「なんの用だ?」 「柬埔寨《カンボジャ》から、はるばる、貴様の生命をもらいに来た」 「な、なに!」 「そう申したら、わかるだろう。……わしは、柬埔寨で、呂宋助左衛門に養われた者だ。十歳の時、助左衛門にひろわれ、成人したあかつき、この日本へ渡って来て、太閤秀吉を撃ち滅し、武名をとどろかせるように、訓育された。秀吉が病没したのは、無念だが、そのかわり、秀吉に讒訴《ざんそ》して、助左衛門を陥れ、その財宝の大半を奪ったばかりか、その女房をも横取りした貴様の首を刎《は》ねる目的をもって、渡来して来たと知れ!」 「………」  助四郎は、愕然となって、言葉もなかった。  若者は、すっと一歩退ると、 「立って、抜け、納屋助四郎!」  と、促《うなが》して、にやりとした。  助四郎は、妻を突きのけると、立ち上った。  そして、刀を抜きはなつや、若者にむかって斬りかかるかわりに、ぱっとひと跳びに、逃げて、 「出あえっ!」  と絶叫した。  次の瞬間、若者は、風の迅さで、躍るや、その双刃の剣を、びゅっと横薙《よこな》いだ。  助四郎の首は、床の間へ刎《は》ね飛び、そこへ据えられてある呂宋の壺へ、どさっと乗った。  若者が、失神した妻女の寝召《ねめし》も二布《こしまき》も、剥《は》ぎとった時、やといの浪士たちが殺到して来た。  裸女を小脇にした若者は、冷然として、抜きつれた敵の群を、見た。  天井裏から覗き下す佐助は、その蒼い眸子《ひとみ》から放つ光や、口辺に漂《ただよ》わせる表情の、あまりの残忍さに、思わず、微かな戦慄をおぼえた。  浪士たちもまた、侵入者がただ者ではなく、主人はすでに殺されているのを知って、一瞬、気をのまれたが、 「おのおの、毛唐人いっぴきに、臆《おく》すなっ!」  あとから、かけつけて来た大兵《たいひょう》の浪士に、叱咤されて、奮然となった。  部屋も廊下もひろく、天井も高かったので、争闘に不自由はなかった。  孰《いず》れも、戦場で阿修羅《あしゅら》となった経験者ばかりであり、奮い立つや、初太刀の功に、われを忘れた。 「南無三宝っ!」  とか、 「こなくそっ!」  とか、 「青豎子《あおじゅし》め!」  とか、呶号《どごう》しつつ、野獣が獲物を狙うように、四方から身構えた。  若者は、再び、にやりとした。人を殺す残忍な快感が、五体に盈《み》ちた時、おもてに示す特徴が、これのようであった。  すうっと、一歩、出た。  その刹那をつかんで、一人が、 「やああっ!」  と、斬り込んだ。刃風に合わせる、双刃の直剣の閃きが発しざま、攻撃者の首は、助四郎と同様、高く刎ね飛んだ。  その瞬間から、若者のふしぎな秘技が開始された。  すなわち、目の高さを、横薙ぎに、その直剣を、凄じい迅さで、旋回させはじめたのである。当然、その長身も、おそるべき勢いで、廻転した。(いうならば、フィギュア・スケーティングの氷上の一点で描く素晴しい廻転技を想像ありたい)  しかも、若者は、裸女をひっかかえて、独楽《こま》のように廻転しつつ、その位置を、部屋から廊下へ、そして廊下を、普通人が走る速度で、移して行ったのである。  白刃が描く閃々たる円盤の中に、黒衣の長身と白い裸形が渾然と溶けあって、ふしぎな美しい模様を浮きあげていたが、あっという間に、闇に没し去った。  あとには、部屋に四個、廊下に二個の首が、ころがっていた。  六  そのまま——異邦の若い兵法者は、納屋屋敷から、かるがると築地《ついじ》を躍りこえて、路上に立つや、 「………」  何やら、呪文《じゅもん》のような異国の言葉を洩らしてから、人影絶えた深夜の街なかを、通り魔のように掠《かす》めて行き、やがて、波浪の音たかい浜辺へ出た。  裸女を、襤褸《ぼろ》のように、砂地へ抛《ほう》りすてて、例の二里の彼方へもとどく叫び声を、咽喉から送り出した。  それから、死んだように横たわっている裸女を、見下した。月光に濡れた白い豊かな肌は、嫋《なよや》かな、なまめかしい曲線を描いて、遽《にわか》に、この逞《たくま》しい巨漢の欲情をそそった様子であった。  頭上に、巨鷲の翼の音がひびいた時、若者は、袴を捲《めく》りあげて、砂上に大趺坐《おおあぐら》をかき、ひき裂くように股を拡げさせた裸女を、その上に跨《また》がせて、抱きかかえていた。  裸女は、柔肉《やわにく》の襞《ひだ》奥へ、蛮力の押し入って来る苦痛に、呻いて、いったん目ざめたが、わが身の曝《さら》されている無慚さに、ふたたび、悲鳴とともに、悶絶《もんぜつ》した。  頭上では、巨鷲が、弧を描きつつ、待ちかまえていた。  やがて、若者は、本能のままの唸りを、ひと声高く立てるや、裸女を、案山子《かかし》か何かのように、面倒くさげに、かたわらへ、ポイと突き棄てた。  すると、間髪を入れず、巨鷲が、一直線に翔《か》け降りて来たかとみるや、裸女の両足くびを、むずと掴みとって、不気味な羽搏《はばた》きの音をそこに残して、舞い上って行った。  逆さ釣りにされて、中空をはこばれて行く裸女の、しろじろと月光に浮いた肢体は、この世ならぬ幻影かとも眺められて、いつの間にか、あとを迫うて来て、砂上の若者のうしろ三間ばかりの地点に佇《たたず》む猿飛佐助の目を、恍惚と、ほそめさせた。  それが、しだいに遠ざかり、月かげの内に溶けた頃、若者は、やおら、立ち上ると、佐助の方へ、向きなおった。  しばし——今日の時間で十秒あまり、両者は、無言で、対峙《たいじ》していた。  さきに、口をきったのは、異邦の若い兵法者の方であった。 「猿飛佐助と申すのは、貴様であろう」 「どうして、知って居る?」 「呂宋助左衛門をたずねて来た山田仁左衛門長政という御仁が、日本へ渡ったら、猿飛佐助という忍びをたずねて行って、業《わざ》を競え、とその風体を教えてくれた。昼間、この浜に憩うている貴様を、遠眼鏡で視て、即座に、猿飛佐助と知ったぞ」  そこで、示威《じい》するために、巨鷲を呼び寄せて、宙を飛んでみせたものであったろう。  佐助は、しきりに、ぱちぱちと、まばたきし乍ら、 「仁左衛門殿は、柬埔寨《カンボジャ》で、何をして居られるぞ?」 「長政は、もはや柬埔寨に在らぬわ」 「何処へ参ったぞ?」 「暹羅《シャムロ》なる王国へ趨《おもむ》いたわ。暹羅においては、エーカー・トサロット王が、股肱《ここう》であったオークヤー・ナイワイの謀叛《むほん》に、その王位を奪われんとしているとき、好機のがすべからずと、勇躍して、八幡船を駆った。……暹羅王国は、いずれ、山田長政を頭領とする日本軍隊のものになろう」 「そうか。仁左衛門殿は、やはり、王者となる星の下に生れたかや」  佐助は、心からよろこばしく、合点した。  若者の方は、佐助のいかにもむさくるしい、矮小の|せむし《ヽヽヽ》姿へ、なかば蔑《さげす》みの眼眸《まなざし》を送り乍ら、 「猿飛佐助、勝負するに、絶好の場所と時刻と思わぬか」  と、云った。  すると、佐助は、かぶりを振って、 「わしはまだ、この堺に、お主《しゅう》に命じられた仕事がある。滅多に、生命をそまつには出来ぬ。第一、理由もない試合は、好まぬ」 「貴様っ! わしの業を看て、怯《お》じたか!」 「さあらず。……おぬしのような御仁とは、気早うたたかわんでも、いずれ、勝負せねばならぬ事情も起ろうし、その機会が到来するであろうと思うまでじゃ」 「よし! 貴様の首をもらうのは、日本ひろしと雖《いえど》も、このわしを措いてほかにないと、おぼえて置け!」 「お主の名は?」 「呂宋助左衛門が、霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》と名づけてくれたぞ」 「霧隠才蔵か。おぼえて置こう」  佐助は、くるりと踵《きびす》をまわすと、のこのこと、歩き出した。  ものの五歩と行かぬうちに、佐助は、ひょいと、右脇へ一歩、躱《かわ》した。  鋭い唸りをたてて、手裏剣が、飛び去った。  佐助は、ふりかえりもせず、また、道のまん中へ戻って、歩き出した。  さらに、五歩行って、こんどは、ひょいと、左脇へ一歩、避けた。  第二の手裏剣が、路上を掠《かす》め過ぎた。  こんども、頭をまわしもせずに、佐助は、道の中央へ、小躯をもどして、歩きつづけた。 「小面憎《こづらにく》し!」  霧隠才蔵は、第三の手裏剣を構えた。  瞬間——佐助は、おのが頭上越えに、何かを、うしろへ抛《なげう》った。  ぱっと、鮮烈な火花が、空間に散った。  白烟《はくえん》を噴《ふ》かせつつ、光の粉が、みるみる月闇の宙に描いたのは、   阿呆  その二字であった。 「うぬがっ!」  才蔵は、憤然として、その火文字へ、手裏剣を投じた。  すでに、佐助の姿は、忽然として、そこから消えていた。  才蔵は、そこへ歩み寄ってみて、思わず、 「うむ!」  と、呻いた。  地べたに拡がっていたのは、いつの間に、脱がされたのか、おのれがはおっていた虎皮の袖なしの羽織であった。  手裏剣は、そのせなかをつらぬいて、土中へ突き立っていた。   三好清海入道  一  大阪城の八層の高大なる天守閣が成った天正十一年秋の、一斑の雲影もとどめぬ澄んだ一日のことであった。  堺の港に着いた二百艘の石船《いしぶね》から、なお続々と、城石の運び込まれている大手口に、父子とおぼしい二人の放下師《ほうげし》が、立った。  父親は、六尺を越える巨漢で、子は、まだ十一二歳の小童《こわらべ》であった。  いずれも紫の頭巾《ずきん》で、目ばかりに包んでいたが、ともに、金箔《きんぱく》に塗りたてられた甍《いらか》を仰ぐ眼眸《まなざし》は、異常な光を帯びていた。  天下無双の大城郭を、と秀吉が、三十余箇国の城造り人夫三万人を、三箇月間、昼となく夜となく使って出現せしめた天守閣であった。  その結構は、まさに、目を奪うに足りた。最上層は、鶴と虎の装飾を施《ほどこ》し、五重には、廻廊、勾欄《こうらん》をめぐらし、勾欄に鮮やかな朱を塗り、二重以下は、藤鼠色という気品のある紫色の塗籠《ぬりごめ》で、各層壁面は金色|眩《まばゆ》い金具で飾られ、まさに、金殿紫閣であった。  就中《なかんずく》——鴟尾《しびのお》と棟瓦《むねがわら》と、そして、鯱《しゃち》は、いずれも、金箔を貼って、豪華の二字に尽きる。 「清太——」  父親の放下師が、まわりに立働く人夫たちにはきこえぬ忍び声で、小伜《こせがれ》に云いかけた。 「あの二尾の鯱の目玉は、蹴鞠大《けまりだい》の翡翠《ひすい》だ。一箇あれば、一万の兵をやしなうことができる」  これをきいて、小伜のまなこは、いちだんとかがやいた。 「秀吉は、天下を取って、おのが所有のうちの最高の宝を、あの天守閣に飾った。わしらは、その宝を、盗って、秀吉の鼻をあかしてやろうず!」  この時、巨石を運んでいた梃子《てこ》の衆から、 「邪魔だ邪魔だ! 放下っ、そこを退きやがれ」  と、呶鳴《どな》られて、父子は、その場をはなれた。  人影すくない通りに出た時、小伜が、はじめて、口をきいた。 「父者《ててじゃ》、あの宝を、どうやって、盗るのじゃ?」 「うむ! 思案は成って居る。清太、お前が離れ業をやることになるぞ」 「どんな、離れ業じゃ?」 「空を飛ぶ——」 「空を?」 「うむ? 鳥と化してな」  巨漢は、そう嘯《うそぶ》いて、高らかに笑い声をたてた。  自ら天下一の大盗と称する石川五右衛門が、この巨漢であった。天下一の大盗と誇るだけに、その神出鬼没の行動は、金品をかすめるケチなものではなかった。  一例を挙げれば——。  天正元年八月、織田信長が、浅井長政を江北の小谷城に包囲し、孤立せしめた秋《とき》であった。  木下藤吉郎が、長政の拠《よ》る本丸とその父久政の拠る京極曲輪《きょうごくくるわ》を遮断《しゃだん》した夜、その陣営に、一箇の黒影が音もなく忍び入って、藤吉郎の前に坐した。 「大盗・石川五右衛門にござる」  そう名乗って、すぐに、用件をきり出した。  小谷城本丸に在る長政の夫人お市の方は、天下にきこえた美女であり、信長公のおん妹御にあたられるおかたなれば、まことに殺すには忍びずと存ずる故、この大盗におまかせあるならば、容易に盗み出してごらんに入れるが如何?  藤吉郎は、べつだん表情も動かさず、 「褒美《ほうび》に何をのぞむ?」  と、問うた。 「お手前様は、いずれ、信長公を殪《たお》して、天下|人《びと》になられる御仁《ごじん》と、看《み》申した。されば、恩を売っておくのでござる」  そうこたえて、刺すように見据える五右衛門の視線を、藤吉郎は、微笑で受けて、 「お市の方を、わしが妻にすることができたら、お主《ぬし》には、天下を取ったあかつきに、四国ぐらい、呉れてもよいぞ」  と、約束した。  戦史によれば、信長は、不破《ふわ》河内守を使者として、長政に降伏をすすめたが、長政はその意志なく、ただ、室お市と三人の娘(長女茶々、次女はつ、三女|小督《こごう》)を送り届ける旨を応《こた》え、そうした、とある。  事実は、そうではなく、藤掛三河守永勝を輿添《こしぞ》えとして、二十数人の侍女をつき添わせて送り届けて来た四挺《しちょう》の輿の中には、信長の首級《しゅきゅう》を狙う刺客をひそませていたのである。これは、途中で、露見して、四名の刺客は、虎御前山《とらごぜやま》の陣地で、信長の旗本千余の武者を対手にして、壮烈な最期をとげた。  長政は、信長の酷薄無慚《こくはくむざん》な性情を、鬼畜《きちく》に等しいものとして、悪《にく》んでいたので、その妹たるお市の方を、返すことなど、毛頭《もうとう》考えてはいなかった。また、あまりにも美貌の妻が、おのれの亡きのち、信長|麾下《きか》の武将に与えられて、その手に抱かれることを想うと、血が逆流する程の嫉妬《しっと》をおぼえたのである。  長政は、本丸の館《やかた》の一間に、妻と三人の姫をとじこめておいて、城とともに、灰燼《かいじん》に帰せしむる肚《はら》であった。  九月一日、ついに最後の闘いを迎えるや、長政は、五名の侍臣に、火を放つように命じておいて、本丸の城門を押し開き、二百余騎を率いて、撃って出た。  火焔が、本丸をおしつつんだ頃あい、お市の方と三人の姫は、この華麗な生地獄の彩りに映える城裏手の雑木林の中に、置かれていた。  お市の方も、三人の姫も、どうして、ここへはこばれたのか、全くわからなかった。今生の別れの盃の中に、ねむり薬が入れてあったとみえて、鯨波《げいは》をききつつ、意識をうしない、気がついたら、ここに横たえられていたのである。  藤吉郎が、数名の家来をつれて、半信半疑で、この雑木林にわけ入って来たのは、暮色せまってからであった。  藤吉郎は、いきなり、お市の方を仰臥《ぎょうが》させると、前をはぐってみた。その恥毛は、きれいに剃られていた。  石川五右衛門が救い出したという証拠は、それによって示す、と予《あらかじ》め報せがあったのである。  二  お市の方は、秀吉の妻にはならず、柴田勝家に嫁《か》し、そして、今春、良人とともに、北ノ荘《しょう》にほろんだ。  秀吉が、北ノ荘を包囲し、足羽山《あすわやま》に陣した夜、石川五右衛門は、再び、忽然《こつぜん》として、秀吉の面前に出現していた。 「お市の方を、救い出される意嚮《いこう》がおありなさるや?」  そう問うた。秀吉は、笑って、 「お市の方は、すでに三十七歳ではないか。天下一の美女も、二度の落城に遭《あ》えば、皺もふえようぞ。……長女の茶々は、十五歳に相成っている。のぞむなら、そっちじゃ」 「かしこまった」  五右衛門は、ふたたび、三人の姉妹を、炎々と燃えあがる北ノ荘城内から救出することに成功した。  ただ、このために、五右衛門は、秀吉を、かえって、生涯の仇敵として、憎悪する立場に置かれることになった。  三人の姉妹を、足羽山の麓の林の中に、そっと置きすてて、立去ろうとした時、五右衛門は、突如として、忍びの者十数名に、襲撃された。暗殺される理由を、対手がたに問うのは、無駄であった。忍びの者たちは、命令を遂行しているにすぎなかった。  秀吉が、盗賊に、二度も恩を売られるのをきらった、と解釈するよりほかはなかった。  五右衛門は、右耳と左手の指三本を喪《うしな》って、遁《のが》れ去った。  爾来《じらい》、五右衛門は、その報復を、一日として忘れたことはない。  秀吉が大阪城を築き、その天守閣の鯱に、印度総督が信長に献じた巨大な翡翠を、惜しげもなく四個に割って、目として嵌《は》める、という噂をきいた五右衛門は、  ——これだ!  と、北叟笑《ほくそえ》んだのである。  五右衛門には、十二歳になる清太郎という一子があった。  南都法隆寺中の斑鳩《いかるが》御所(中宮寺)に忍び入った折、そこの比丘尼《びくに》の一人のあまりに|ろうたけて《ヽヽヽヽヽ》美しい姿をみとめて、怺《こら》え難く、拉致《らち》して、生ませた子であった。その比丘尼は、桃華御殿(一条家)の息女であった。清太郎を生むと、間もなく、みまかった。  五右衛門は、清太郎を、物心つくかつかぬうちから、おのれ以上の大盗たらしむるべく、苛酷な修練を強いて、いまでは、いかなる厳重な警戒を布いた館へでも、忍び込ませて、聊《いささ》かの不安もおぼえなかった。  その夜——。  伏見の北方大亀谷の隠れ家に戻った五右衛門は、わが子に、翡翠を奪取する方法を教えた。清太郎が、眉宇《びう》も動かさずに、頷《うなず》くのを視て、五右衛門は、満足した。  それから、七日後の深更《しんこう》——。  季節はずれの熱気が、風雨を呼んで、宵口から、往還に人をも立たせぬまでに、凄じい吹き降りになっていた。  この風雨に乗って、巨《おお》きな凧が、舞いあがるや、大阪城の天守閣にむかって、近づいた。  凧には、小童が貼りついたようにしがみついていた。  風雨は、この人工の鳥の飛翔《ひしょう》を小面憎《こづらにく》いとばかり、いくたびか、逆落《さかおと》さんと、翻弄《ほんろう》したが、自在に動かせる仕掛けの翼を巧みにあやつる小童の技《わざ》が、まさって、ついに、凧は、天守閣の大屋根に、とり着いた。  小童は、自由の身になるや、凧の綱を、鯱の尾へひと巻きからめておいて、その目玉をさぐった。  もし、この夜、堺港の石船二百艘が、高潮の波浪に悉《ことごと》く転覆したとの急報がなければ、大盗の計画は、成就したに相違ない。  秀吉は、堺港に、篝火《かがりび》を焚くように命じておいて、急遽《きゅうきょ》、天守閣にのぼって来た。従って来たのは、賤《しず》ヶ嶽《たけ》の七本槍として一躍、武名を馳せた加藤虎之助、平野三十郎、脇坂甚内、加藤左馬之助、戸田三郎四郎、福島市松、糟谷内膳ら秀吉馬廻りの若武者たちであった。  名もなき土民が野合の子として生れて、野伏《のぶせり》の走り使いとして育った秀吉は、暖衣柔服《だんいじゅうふく》を風雨にうたせることなど一向に平気で、のそのそと、五重の廻廊に出た。  はるか遠方で、篝火が、炎々と焚かれていたが、荒れ狂う風雨にさまたげられて、石船が転覆したさまは、見さだめ難かった。  秀吉は、脇坂甚内がさし出した遠目鏡を、片目にあててみたが、すぐ、はなして、 「役に立たぬわ」  と、さっさと、内へ戻りかけて、ふと、地上から大屋根へのびている一本の太綱をみとめた。  鯱から、翡翠の目玉をとりはずさんとしている小童にとっては、運のつきであった。  大屋根上に、賤ヶ嶽の七本槍に迫られては、異常な敏捷《びんしょう》さをそなえた小童も、遁《のが》れ去るすべはなかった。  嘘のように美しく晴れた翌朝、秀吉は、不敵の盗賊を、本丸の追手前の広場に引据えさせて、 「ほう——」  と、目を瞠《みは》った。  小童ときいていたが、ただの小童ではなく、秀吉の小姓のうちにも、これほどの麗しい眉目《びもく》をそなえた少年はいなかったのである。しかも、その眉宇に、眸子《ひとみ》に、口もとに、寸毫《すんごう》もたじろがぬ凛々《りり》しい気色《けしき》が刷《は》かれていた。 「おのれは、さだめし、氏素姓のある者の伜であろう?」  と、問うと、小童は、昂然と、胸をはって、 「大盗・石川五右衛門が一子にござる」  と、こたえた。 「五右衛門の伜か、そちは——」  秀吉は、唖然《あぜん》となった。  しかし、すぐ、いまいましげに舌打ちした。 「わが子に、盗賊を継がせようとは、見下げ果てた痴《し》れ者めが!」  もし、五右衛門が、この子をつれて来て、将来を委託すれば、一国一城のあるじにもとりたててやったであろうに、と思った。 「首を刎《は》ねい!」  命じておいて、本丸の内へ入りかけた時、二ノ丸の方角が、騒然となった。  入れ交る呶号《どごう》の中から、 「石川五右衛門、秀吉殿に見参《げんざん》っ!」  その声が、噴《ふ》いた。 「盗賊にも、父親の情はあると見えるの」  秀吉は、加藤虎之助に、五右衛門を、ここへともなうように命じた。  五右衛門は、武士の衣服をつけて、はじめて、その魁偉《かいい》の面貌《めんぼう》を、秀吉の目に、あきらかにした。  五右衛門は、秀吉の前に立つや、 「お手前様に売った恩を、只今返して頂きたく参上つかまつった」  と云った。  秀吉は、皮肉な微笑をうかべて、 「伜の生命乞いか。大盗にあるまじき女々《めめ》しさだぞ」 「されば、代りに、この五右衛門の身を、煮ようと焼こうと、勝手にめされい」 「煮ようと、焼こうとか——」  秀吉は、凝《じ》っと睨《にら》みかえして、 「煮ても焼いても、よいのか?」 「くどく、念を押されまいぞ。石川五右衛門は、天下の大盗でござる。ふさわしい最期を与えられるがよい」 「よし! 処刑の方法は、この秀吉にまかせい」 「伜の身柄は、なんとされるぞ!」 「高野山へ送って、得度《とくど》させるか」 「父の仇を討たせまいための手段でござろうか」  五右衛門は、声をたてて豪快に笑った。  五右衛門が、尼ヶ崎の入口の大物《だいもつ》浦で、数千の見物人が固唾《かたず》をのんで視まもるなかに、大釜で油煮される刑に処せられたのは、それから、三日後であった。  目撃者の語り伝えたところによれば、高手小手に縛られて、油の中に立たされた五右衛門は、念仏や題目をとなえるかわりに、おのれが罪状を、ひとつひとつ、声高らかにかぞえたそうである。 「ひとつ、永禄十三年四月十四日、将軍家|普請《ふしん》落成の祝言《しゅうげん》の席、伊勢国司北畠中将の差料《さしりょう》をすりかえたること。  ひとつ、元亀四年五月二十二日、宇治真木島に立籠れる将軍家の居室より足利家|累代《るいだい》の宝物大鎧を奪いたること。  ひとつ、天正九年歳暮、安土城に忍び入り、信長殿愛用の大身の槍を頂戴いたしたること」  といったあんばいに、ならべて行き、やがて、沸き立って来た油の熱さに、堪えに堪えていた体力気魂も尽きた瞬間、 「ひとつ、天正十一年霜月、大阪城天守の鯱の目玉を、かすめんとして、果さず、天下の大盗・石川五右衛門、ここに、死す!」  と、叫んでおいて、煮え油の中へ、身を没した、という。  三  慶長三年五月、太閤秀吉も、ついに、年貢の納め時が迫って来た。  華やかな醍醐《だいご》の花見の宴をひらいたのち、秀吉は、一種の病気に罹《かか》って、伏見で、臥牀《がしょう》した。  はじめは、侍医の曲直瀬《まなせ》養安院は、軽症だと思っていたが、日々に窶《やつ》れて行く秀吉の老醜の気色に、首をひねって、京から諸名医を招集した。  いずれも、その病徴《びょうちょう》に、眉宇《びう》をくもらせた。  秀吉は、しかし、はじめは、死期をさとってはいなかった。たとえさとっていても、いまはまだ、死ねなかった。嗣子《しし》秀頼が、十五歳になって、天下を譲るまでは、死ねなかった。  死にたくないという執念が、重病とたたかい乍《なが》ら、秀吉に、殆どあさましいまでに、嗣子秀頼を守る措置を、つぎつぎと、とらせて、その死をはやめさせて行った。  徳川家康と前田利家と毛利輝元と上杉景勝と字喜多秀家を、枕元に招んで、五大老という職制を作った。次いで、石田三成、長束《なつか》正家、前田玄以、浅野長政、増田長盛を招んで、五奉行という職制を作って、政治の執行機関たらしめた。五大老、五奉行が、秀頼を扶《たす》けて、豊臣家に忠誠を尽す、という血判誓書をとったが、まだ、それだけでは、安心ができず、五奉行には、親類の縁を結ばせた。  しかも猶《なお》、日が経つにつれ、おのが身が衰弱するにしたがって、秀吉は、不安になり、自ら筆をとって、遺言状をしたためることにした。  秀頼事、なりたち候やうに、此かきつけ候しゆを、しんにたのみ申し、なに事も、此外には、おもひのこす事なく候、かしく  八月五日  太閤  いへやす  ちくせん  てるもと  かげかつ  秀いへ  返す返すも秀より事、たのみ申候、五人のしゆ、たのみ申べく候、五人の物に申わたし候、なごりをしく候、以上  したためおわって、秀吉は、がくりと、枕に顔を伏せると、しばらく、失神状態に陥っていた。  三更《さんこう》近い深夜であった。遺言状をしたためるために、看護の者も、遠ざけていた。  失神している秀吉を、呼んだのは、曲直瀬《まなせ》養安院からあたらしく遣されて来た青頭の医生であった。薬を持って来たのである。  秀吉に、ひと匕《さじ》、ふくませてから、まだ若い秀麗な容貌の医生は、ひかえめなひくい声音で、 「殿下、それがしは、このたび、|ぽるつがる《ヽヽヽヽヽ》より帰国つかまつりましたる者にございまするが、殿下の御容態を拝察いたしまするに、薬方ならびに治療の法が、あやまってはいないか、と懸念されまする。名医の方々をそしるのではござりませぬが……、それがし、|ぽるつがる《ヽヽヽヽヽ》にて、殿下と同じ痢病《りびょう》を患いし者を、治癒せしめたるおぼえがありますれば——」  と、云った。  その容子《ようす》といい語調といい、いかにも、病める者の気持を惹《ひ》きつける魅力があった。 「そちはなんと申す?」 「三好清海《みよしせいかい》と申します」  秀吉は、熱に潤《うる》んだ眼眸《まなざし》で、その端整な眉目を見やったが、ふと、以前どこかで、見たような気がした。 「そちならば、どんな治療の法をほどこすぞ?」 「まず——」  若い医生は、秀吉を見かえして、にっこりした。 「お湯を召して頂きまする」 「湯を——?」  秀吉は、湯でからだを拭くことさえも、さわりがあると、名医たちから、ゆるされていなかった。 「入浴して、大事はない、と申すか?」 「おん身を浄《きよ》められますれば、お心もまた、爽《さわ》やかにおなりあそばすのは、申上げるまでもございますまい」 「それは、そうだの。しかし、医師どもが、ゆるしてはくれぬ」 「召そうと、仰せられますならば、すでに、用意いたして居りますれば、それがしが、こっそり、おつれつかまつります」  三好清海と名乗った若い医生は、それから、いくばくかの後、骨と皮ばかりに痩せおとろえた天下人を、かるがるとかかえあげて、人目をしのび乍ら、風の迅《はや》さで、浴室へ、奔《はし》った。  そして、衣服を脱いだ枯木のような老躯を、浴室の板の間に横たわらせた時、その態度を一変させた。 「太閤殿、それがしの顔に、見おぼえがおありであろう?」 「………?」 「患って、もうろくして、思い出す力もうせたか?」 「な、何者じゃ?」  いまは、惨《みじ》めな垂死《すいし》のおいぼれでしかなくなった秀吉は、対手《あいて》の刃物のような冷やかな鋭い視線に射込まれて、たるんだ痩せ裸を、わななかせた。 「十五年前、釜|茹《ゆ》でにされた大盗・石川五右衛門の一子でござる。高野山に遣《や》られて、得度したなごりがこの青頭なれど、所詮は、蛙の子は蛙になるよりほかはござらぬ。父以上の大盗たらんには、まず、天下人たる太閤殿のおん生命《いのち》を頂戴して、父が讐《あだ》を復《かえ》すべし、と企《くわだ》てて、斯《か》くの通り——」  にたりとした。 「さらに、おひろい秀頼|君《ぎみ》の身柄を拉致《らち》して、徳川内府へ、いくらで、売りつけようかと、思案つかまつる」  これをきいて、秀吉は、目眩《めくら》む恐怖にかられて、思わず、 「そ、それは、ゆ、ゆるせ! そ、そればかりは……」  と、両手を合せた。 「太閤ともあろう御仁が、ただ、許しを乞うばかりか」 「い、いや——」  秀吉は、かぶりをふった。 「わ、わしの軍用金を、そ、そちに、呉れる」 「軍用金を? まことか?」 「荷駄三百疋分の軍用金じゃ。其処に匿《かく》してある。……わしは、内府も、大納言(利家)も、年寄ども(五奉行)も、信頼して、居らぬ。軍用金の匿し場所は、誰も、知らぬ」 「どこだ?」 「そちも、大盗ならば、さ、さがせ……。わしは、これまで、戦功のほうびとして、忠義の旗本どもに、正宗の太刀を、百振り、頒《わか》ち与えた。いずれも、同じ鍔《つば》じゃ。その鍔のうちのひとつを二つに割れば、在処《ありか》が、判る。……この秘密は、秀頼への、遺言状にのみ、したためてある。秀頼が十五歳になったあかつき、百名の旗本どもから、正宗を返させて、軍用金を、掘り出させよう、と存じて、この手段を、えらんだ。……嘘ではない。そちが、さきに、その鍔を、奪うならば、軍用金は、そちに、呉れる。……ゆ、ゆるせ! 秀頼の生命を、内府に、売ってくれるな!」  秀吉は、三好清海に、とりすがろうとした。 「よし、では、おひろいだけは見のがそう。……しかし、釜で煮られた父の仇は討つぞ!」  云いざま、三好清海は、秀吉をかかげるや、白い檜《ひのき》の浴槽へ、ざんぶと沈めた。  たたえられていたのは、冷水であった。  半刻の後、意識を喪った秀吉は、もとの褥《しとね》に、横たえられていた。  その夜から、秀吉は、昏睡《こんすい》をつづけ、時折り目をさましたが、呟くのは譫言《うわごと》ばかりで、意味をなさなかった。  五日後——八月十八日|丑刻《うしのこく》、一代の英傑は「……誓文を」と、この一言だけ、はっきりと呟いたのち、六十三歳を一期《いちご》とした、不帰の客となった。  四  関ヶ原の決戦に、西風競わず、石田三成が滅んで、天下は、徳川家康のものに帰して、平和を迎えた。  高野山の麓北谷の九度山《くどさん》に隠栖《いんせい》した真田昌幸・幸村父子のあけくれも、平穏であった。  散り散りになっていた一族・郎党が、いずこからともなく、あらわれて、いつか、数十名の世帯になっていたが、べつだん、兵機を練るけはいもなく、一同は、幸村が考案した、一種の打紐《うちひも》を製《つく》るのに、余念がなかった。これは、大変丈夫で調法な紐であったので、諸方から注文が殺到して来て、いくら作っても、間に合わぬくらいであった。後世にまでのこった「真田紐《さなだひも》」が、これである。  そうした一日、この隠宅に、一人の武将がおとずれた。  たった一名の郎党をしたがえて、白馬を乗りつけて来たのは、宇喜多秀家の謀臣|明石掃部助全登《あかしかもんのすけたけのり》であった。  関ヶ原の役では、宇喜多秀家は、西軍首脳の一人となったが、その軍略戦闘は、明石掃部助全登の頭脳に、まかされた。  備前美作《びぜんみまさか》から、軍を発して、石田三成の軍と合して、伏見城を攻め落し、さらに伊勢を徇《とな》えて、関ヶ原に押し出し、先鋒となって、東軍の勇将中村一栄と福田|畷《なわて》にたたかい、これを撃破し、さらに、驍将《ぎょうしょう》福島正則の兵を、しばしば、撃退したのは、掃部助全登の秀れた力によるものであった。  武運つたなく、西軍が敗退するや、掃部助は、主君秀家が、裏切り者の小早川秀秋の牙営《がえい》へ突入せんとたけり立つのをとどめ、再挙の催しこそ肝要であると忠告して、岡山へ落ち行かせた。  おのれは、ふみとどまって、殺到する敵勢を、わずか数十騎で引受け、主君の騎影が遠く山蔭にかくれるまで、一士も通さず、やがて、血路をひらいて、何処へともなく駆け去った。  掃部助が、ひそかに備前へもどって来た時、主君秀家は行方知れずになり、留守居の士卒らは、望みを失って四散し、そのあとに土寇《どこう》が蜂起《ほうき》して、岡山城内に乱入し、藩庫の金穀から、館邸の什器《じゅうき》にいたるまで、ことごとく掠奪《りゃくだつ》し去ったあとであった。  爾来、掃部助は、備前の足守《あもり》に潜居《せんきょ》していた。  当時、星の数ほどいる武将の中に、その智略において、群を抜いている軍師が三名いた。  上杉景勝の家臣|直江山城守兼続《なおえやましろのかみかねつぐ》と、真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》と、そして、この明石掃部助全登《あかしかもんのすけたけのり》と。  ともに、西軍に属して、徳川勢を遺憾《いかん》なく撃ちまくったのである。  上杉景勝のみは、封を削られただけで、米沢に移されたので、直江兼続もまた罪せられずして、五万石の封を受けていたが、あとの二人は、浪々の身となっていたのである。  掃部助は、幸村と久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》すると、四方山《よもやま》の世間話をしばらく交したのち、なにげない口調で、 「ところで、数日のうちに、江戸中納言(徳川秀忠)が、秀頼公の舅《しゅうと》になるそうだが……」  と、云い出した。  幸村は、黙って、澄んだ眼眸で、掃部助を見かえしている。  すでに、このことは、幸村の耳にも入っていた。  この年春、徳川家康は、征夷《せいい》大将軍を拝し、源氏長者、淳和《じゅんな》、奨学《しょうがく》両別当となり、牛車兵仗《ぎっしゃへいじょう》をゆるされていた。  家康は、名実ともに天下人になったのである。  これを機会に、家康は、秀忠の女《むすめ》千姫を、豊臣秀頼にめあわせようとしたのである。  秀頼は十一歳、千姫は七歳であった。 「姫君は、今明日のうちに、江戸から伏見城に到着して、船に乗って、大阪にむかうそうな。警固は黒田長政と大久保|忠隣《ただちか》。弓槍鉄砲おのおの三百——」 「………」 「どうであろうな、左衛門佐殿。姫君を、途中で襲うて、拉致《らち》しては——」  掃部助は、平然として、そう云ってのけた。  幸村は、ちょっと考えていたが、 「この婚儀をさまたげたところで、さほどの意義もありますまい」  と、こたえた。 「内府の鼻をあかし、大阪城の片桐|市正《いちのかみ》など腑抜けを仰天《ぎょうてん》させることが、意義なしと申されるか?」  掃部助は、口もとに微笑を泛《うか》べていたが、目は、笑ってはいなかった。 「いまさら、世間をさわがせてみたところで、一客藩に堕《お》ちた豊臣家を、もはや太閤の時代にかえすことは不可能と存ずる」 「左様——大阪城には、もはや人は居らぬ。しかし、野《や》には人が居り申すぞ」 「たとえば——?」 「ここに、真田左衛門佐幸村と明石掃部助全登が居る!」  そう云いはなって、鋭く見据えた。  宰相は、掃部助の壮烈な覇気を、見事だと思った。しかし、対手の言葉に乗って行くのは、さしひかえなければならぬ、と自戒した。  徳川家康の肚裡《とり》は、あまりにも判りすぎる掃部助と幸村であった。  家康は、血族の関係などに拘泥《こうでい》する人物ではなかった。織田信長の機嫌を損じまいために、わが子信康を殺している。秀吉との好《よしみ》を失わないために、女婿である北条氏直を滅している。  孫娘を秀頼に呉れるのは、大阪方を、油断せしめる方便でしかないのである。  この祝言をさまたげることは、家康の腹黒い遠謀に、一矢《いっし》を射立てるとともに、野にひそむ豊家恩顧のめんめんを、奮い立たせるきっかけともなろう。掃部助は、そう考えたに相違ない。  そして、幸村をして、この冒険をやらせれば、幸村が、この九度山で、ただむなしく、真田紐だけを製っていたのではないという証拠をも、観ることができる。来るべき秋《とき》にそなえてたくわえている幸村の底力の一端をのぞくこともできるというものである。  掃部助は、千姫拉致を、くどくは要請しなかった。そのかわりに、 「野に人はあっても、軍資金がない、とお手前は、申されたいのではないか?」  と、話題を転じた。 「調達の目安がある、と申されるか?」  幸村はじっと、掃部助を、見かえした。 「ござる!」  掃部助は、大きく頷いてみせた。 「関ヶ原大勝ののち、内府(家康)は、九月二十七日、大阪城に入り、秀頼公に謁《えっ》してから、そのまま、西ノ丸に滞在いたした。これは、西ノ丸に在って、天下の大名たちを出仕させて、いまや太閤の地位を奪ったことを誇示するためであったのは勿論|乍《なが》ら、そればかりではなく、実は、故太閤が、ひそかに匿《かく》された夥《おびただ》しい軍資金を、大阪城内に探索するためであった、と思われい」 「………」 「内府が、ついに発見できなかったのは、大阪方にとって、この上の幸いはなかった、と申せる。……それがしは、偶然の機会に、太閤は、軍資金の匿し場所を、戦功のほうびに、旗本どもに賜った百振りの正宗の太刀の、いずれかの一振りの中に、あきらかにされた、ときいたおぼえがある。もとより、秀頼公への遺言状には、このことは、記されて居ろう。……軍資金は、われらにあり申す!」  幸村には、初耳であった。  太閤が、わが亡きのち、いかにして、秀頼を守護するかに、腐心したか、このことも、その手段のひとつであったに相違ない。  すなわち——。  一騎当千の旗本たちを、秀頼からはなれさせまいために、正宗の太刀をひと振りずつ与えて、 「この中に、軍資金の在処《ありか》を示すものが秘めてある。秀頼が成年に達したならば、百振りを揃えて、調べよ」  と、云い置いたのである。  太閤が匿した軍資金である。おそらく、想像を絶する巨額に相違ない。  旗本百騎が秀頼の下に結集して、はなればなれにならぬための、これは強い楔《くさび》の役目をはたしている、と考えられる。 「それがしは、このことには、なお、半信半疑であり申したが、近頃にいたって、信ずるに足りる事実と、合点いたした。……ここ半年あまり、荒法師ていの盗賊が大阪市中を徘徊《はいかい》し、大阪城の旗本たちを次々と襲って、その差料を奪っている、ときいて、ハタと思い当り申した。その盗賊もまた、軍資金を狙っているのであろう、とな」 「………」 「左衛門佐《さえもんのすけ》殿、もし、これが事実であれば、お手前も、心に決める儀がおありであろう。いかがだ?」 「………」  掃部助の凝視を受けとめ乍ら、幸村は、あくまで、穏やかな表情を変えようとはしなかった。  掃部助が、辞去して、しばらく経ってから、幸村の居室から、金鈴が鳴った。  ひょっこりと、庭へ、姿を出現させたのは、猿飛佐助であった。  のこのこと、その居屋の縁さきに近づくと、 「お呼びでございましたか?」  と、声をかけた。  あかるく、樹枝の影を匐《は》わせた障子の内側から、 「ちかごろ、大阪市中を、豊家の旗本たちの差料を掠奪する僧兵すがたの賊が、出没するといううわさをきかぬか?」 「きいて居ります」 「そやつを生捕ってみよ」 「かしこまりました」  佐助は、こたえて、ぺこりとお辞儀をすると、のこのこと遠ざかって行った。  五  掃部助が宰相を九度山に訪問してから数日後の夜のことであった。  もうそろそろ三更に近くなった頃あい、大阪城北面の、追手門の潜《くぐ》りから、編笠の武士が、出て来て、天王寺方面へむかって、歩き出した。  大兵《たいひょう》であったが、殆ど跫音《あしおと》をたてなかった。袴も鳴らさず、月明りの中を、編笠だけが、宙を滑って行くような、ふしぎな歩行ぶりであった。  心得ある者が看れば、これは一流兵法者が、永年の修練によって、おのずと習得した足さばきと判った筈である。昼夜すこしの休みもなく、どんな険阻《けんそ》な山坂でも、同じ歩調と速度で歩いて行くことができ、体力の消耗も最小限にくいとめられる。  これは、上半身を、まっすぐに立てて、動かさぬのがコツであった。  したがって、編笠は、ほんのわずかな動揺もしないのである。  やがて、寺院の土塀が、左右につらなった地点に来た。  一箇の白い影が、右側の山門の上から躍《おど》って、武士の行手——二間のところに、戞然《かつぜん》として、大地を鳴らして、立った。  そのむかしの叡山《えいざん》の僧兵そのままに、袈裟《けさ》で頭を包み、大薙刀《おおなぎなた》を片手にひっ掴《つか》み、一本歯の高下駄を履《は》いていた。  奇妙なことに、その一本歯は、横ではなく、縦につけられていた。どうやら、一本歯には、鉄がうってあるらしかった。 「見参!」  まず、高らかに、そう叫んで、大薙刀を直立させると、 「腰の太刀を所望いたす」  と、云いはなった。  すると、武士は、編笠の中から、 「お主《ぬし》は、すでに、十七振りの太刀を奪ったそうだな」  と、冴えた声音を返した。 「いかにも! 豊家旗本百騎の太刀を、ことごとく、奪ってみせる!」 「意気は壮とするが、この太刀だけは、奪えまい」 「奪ってみせる!」 「それがしは、旗本百騎の一人ではない。お主の盗奪を阻止するために、片桐|市正且元《いちのかみかつもと》殿より、たのまれた兵法者だ」 「やとわれ兵法者などを、おそれる天下の大盗にあらず。……名があれば、きいて置こうぞ。名のれ!」 「一刀斎伊藤景久《いっとうさいいとうかげひさ》」 「ふむ! おのれが、伊藤一刀斎か。おもしろい! 勝負っ!」  僧賊は、左足を大きくふみ出して、大薙刀を、頭上たかだかと、ふりかぶった。  伊藤一刀斎は、編笠だけははずしていたが、まだ、太刀は抜いていなかった。  僧賊の構えを視《み》て、  ——飛翔《ひしょう》の術があるな!  と、さとって、頭上からの襲撃にそなえる抜きつけの業《わざ》を使わんとしたのである。 「行くぞ!」  僧賊は、一|喝《かつ》とともに、大薙刀を、麻幹《おがら》のように、かるがると、ひと振りぶーん、と唸《うな》らせた。これは、威嚇《いかく》であった。  威嚇に乗る一刀斎ではなかった。  白刃を鞘のうちに置いて、冷然として、待つ。  一刀斎は、この時|恰度《ちょうど》四十歳に達し、すでに、無想神妙の剣を会得していた。  三年前、京に住んでいた時、木太刀の試合で、坂田某という兵法者の片目をつぶしたことがある。  坂田は、負けた際には入門するという約束を実行したが、肚裡では、一刀斎に復讐すべく、ひそかに企てていた。  一刀斎には、妾があり、別宅に置いて、時おり泊っていた。容子も美しく、気だても優しかったので、一刀斎は、心をゆるしていた。  その妾をいつの間にか欺き賺《すか》して味方にひき入れた坂田は、一夜、一刀斎を酒に酔わせて寐かせると、妾に大小をぬすみかくさせておいて、七八名の仲間とともに、斬り込んだ。  折柄、夏のことで、一刀斎は、蚊帳を吊って、寐ていた。  敵がたは、蚊帳の四《よ》つ乳《ち》を切って落した。  枕許に手をさしのべた一刀斎は、両刀がないのに気づいた。  酒色におぼれた不覚を骨髄まで感じつつ、一刀斎は、前後左右から、なぶり斬りに襲って来るのを、ここにくぐり、かしこにひそんで、ようやく躱《かわ》して、蚊帳からぬけ出すと、酒肴の器を続けざまに投げうってふせぎ、隙をうかがって、一人から白刃を奪いとるや、ことごとく斬り伏せたのであった。  この貴重な経験が、一刀斎に、極意無想剣《ごくいむそうけん》を生ませたのである。  人の本体は、無刀が第一である。すなわち、敵と対峙《たいじ》した時、おのれは、刀を所持して居らぬと心得るのである。おのが剣で、対手を斬ることを忘れるのである。無刀で、対手の振り込んで来る白刃をふせぐことを考えるのである。対手が一流の使い手であれば、無刀ではふせぐことは、叶うまい。しかも、なお、おのれは無刀であると心にきめている。  さいわいに、人間には、害を防ぐ本能の機能がある。夢寐《むび》の間にも、足の痒《かゆ》いのに、頭を掻きはせぬ。足が痒ければ、足を掻き、頭が痒ければ、頭を掻く。  当然、敵が撃って来れば、こちらは、反射的に、腰の剣を抜いて、防ぐ筈である。いわば、それを所持していることを忘れていて、しかも、本能の迅《はや》さをもって、抜きはなっている。これを無想剣という。  僧賊の襲撃を待つ一刀斎は、ただ、小児のごとく無心でいればよかった。いうなれば、剣は、鞘のうちにあって、すでに勝を占めていたのである。  一流の兵法者ならば、この無心の姿にむかって、跳びかかることは、容易にでき難いであろうが、僧賊は、おのが飛翔の術に絶対の自信があった。  というのは——。  その高下駄の一本歯は、刃物になっていたのである。常には、これに、鉄の鞘を嵌《は》めているので、歩行にさしつかえはなかった。  ひとたび、敵にむかって飛翔の術を使わんとするや、地面を蹴りざまに、鞘をはねとばして、両足に履いた高下駄を、凶器と化さしむるのであった。  敵は、当然、振り下される大薙刀の方を防ごうとする。  その刹那に、高下駄の刃物は、敵の顔面へ、がっと食い込むことになるのだ。あるいは咽喉へ、肩へ、胸へ、容赦《ようしゃ》なく、食い込むのである。  振り下される大薙刀と、左右の高下駄の刃物と——この三つの凶器に、一挙に襲われては、いかに、兵法の達人でも、防ぐすべはない筈であった。  伊藤一刀斎に、極意無想剣があっても、能く防ぎ得るとは、思われない。 「一刀斎! いかにっ!」  すでに勝利におごった一声もろとも、僧賊は、音高く、大地を蹴って、五体を宙のものにした。  高下駄の一本歯から、それぞれ鉄鞘は弾《は》ね飛んだ。  それに応じて、一刀斎の身も、目にもとまらぬ速さで、動いた。  文字通り、一瞬の勝負であった。  六尺の空中から振り下された大薙刀は、鍔《つば》のところから両断されて、二尺七八寸の大反刃《おおぞりば》が、月を慕《した》うかのごとく、高く、はね飛ぶのが、見えたばかりである。  僧賊は、一間あまりむこうに、降り立っていた。跣《はだし》になって、……両断された長柄を掴んで……。  かれがはいていた高下駄は、二足とも、一刀斎の足もとに落ちていた。ともに一本の刀の鞘を噛んで——。  一刀斎の神技というべきであった。宙に翔《か》けあがる敵がはいた高下駄の一本歯が、刃物と化したのを見てとった一刀斎は、差料を抜きつけるとともに、左手で鞘をも腰から抜きざま、右手の剣で大薙刀を両断するのと、ふたつの下駄刃を鞘に噛ませる迅業《はやわざ》を、一動作をもってなしたのである。  一刀斎は、うそ寒げに、役に立たなくなった長柄を掴んで立つ跣《はだし》の僧賊を、じっと見据えて、 「三好清海入道とやら、いかに!」  と、あびせた。  僧賊にのこされているのは、血煙りたてて、殪《たお》れることだけであった。 「……うぬ!」  ひくく、呻いて、一歩退った。  一刀斎は、一歩、出た。  この瞬間であった。  突如、山門の屋根から、無数の縄がさっと投じられて、投網のように、方錐形《ほうすいけい》にひらいて、一刀斎をおし包んだ。  一刀斎は、無言の気合を発して、白刃を旋回させると、その無数の縄を、薙《な》ぎ払った。  すると、縄の切り口から一斉に、白煙が噴いたかとみるや、みるみる、一刀斎の姿を巻き込んだ。  一刀斎は、あわてて、煙の外へ、跳躍して遁《のが》れることをしなかった。  頭上の敵は、それを狙っているかも知れなかったからである。  双眼をとざして、一刀斎は、息を断った。動かずに、煙がうすれるのを待って、一刀斎が目蓋《まぶた》をひらいた時、すでに、僧賊の姿は、そこから消え失せていた。  夜がしらじらと明けはなれた頃、とある寺院の境内の一隅にある杉の樹に、三好清海入道は、ぐるぐる巻きにしばりつけられていた。  その前に立っているのは、猿飛佐助であった。 「おれを、一体どうしようというのだ?」  清海入道は、目と歯をひき剥《む》いて、吼《ほ》えるように、問うた。 「どうもせぬ。お主《しゅう》様のとこへ、つれて行くまでじゃ」  佐助は、対手の睥睨《へいげい》の凄じさに、いささか当惑したように、しきりに、目蓋をパチパチさせ乍ら、こたえた。 「あるじとは、何者だ?」 「真田左衛門佐幸村様じゃ。……どうだ、家来にならぬか、清海入道?」 「くそくらえ!」  清海入道は、べっと生唾を、佐助に吐きかけて、 「おれは、天下の大盗・石川五右衛門が一子だぞ! 真田幸村ごとき小才子《こさいし》の家来になど、なってたまるか!」  と、うそぶいた。  とたんに、佐助は、ムキな表情になると、 「こやつ! お主様を小才子とぬかしたな!」  と、その横面を、ぴしゃっと、ひっぱたいた。  しかし、すぐに、激昂《げっこう》した自分に照れたように、くしゃくしゃと、顔中に皺をよせて、 「お主様に目通りすれば、小才子かどうか、すぐにわかるわい」  と、呟いた。  実は、佐助は、生捕ってみて、清海入道があまりに端麗な公卿面《くげづら》をしているので、びっくりしたのであった。  佐助は、美男子に対して、ひどく劣等感をもっていたのである。   柳生新三郎  一  慶長三年秋——。  太閤秀吉が、その波瀾万丈の六十三年の生涯を、伏見城において、閉じようとしている頃、大和国|神戸《かんべ》ノ庄、小柳生城内でも、小さな不幸が起っていた。  城主柳生|石舟斎宗厳《せきしゅうさいむねよし》の女志摩《むすめしま》が、晴れの婚儀を明後日にひかえて、自害したのである。  志摩は、前年徳川家康に仕えた兄又右衛門|宗矩《むねのり》の仲人で、秀忠近衆のひとりに嫁ぐことになり、今朝、小柳生城を出て行くことになっていた。婚儀は、京都紫竹村鷹ヶ峰の徳川家康陣屋で、とりおこなわれる手筈であった。  朝靄《あさもや》の流れる裏手の砦《とりで》の山に立って、伐り拓《ひら》くべき地域を眺めていた石舟斎は、報《しら》せを受けて、いそいで、館に戻って、志摩の居間に入った。  志摩は、懐剣でのどを刺しつらぬいて、顔を経几《きょうづくえ》に、俯伏《うつぶ》せていた。  几上《きじょう》には、遺書はなかった。  かかえ起した石舟斎は、その死顔を看て、怪訝《けげん》の面持になった。  覚悟の自害をした者の、その覚悟の気色をとどめて居らず、むしろみにくい苦痛の表情をのこしていた。  褥《しとね》に移すべく、抱き上げた時、さらに、石舟斎の不審を呼んだのは、その裾から洩れた微かな臭気であった。  なきがらを、褥に横たえた石舟斎は、詰めかけた一同を、のこらず下らせておいて、片手を、冷たい股間へ滑り入らせると、嫩草《わかくさ》の蔭の柔襞《にこひだ》へ、中指を挿入した。  それから、しばらくの沈思を置いてから、手を拍った。  廊下に来た侍女へ、次男新三郎|正厳《まさよし》をここへ、と命じた。  新三郎は、音もなく、庭から来た。眉目《びもく》秀れているのが、必ずしも、人に好感を与えぬことを、この二十八歳の兵法者《ひょうほうしゃ》は、示していた。額にも眉にも眸子《ひとみ》にも鼻梁《びりょう》にも、口もとにも、湛《たた》えられているのは、霜刃《そうじん》のような冷たさだけであった。  新三郎は、縁さきに立って、黙って、父を見かえした。  石舟斎は、いきなり、 「柳生家の血すじに、桀悪《けつあく》の血は一滴たりと混って居らぬと信じて居ったに、おのれ一人のみ狂痴《きょうち》の徒であったとは!」  と、あびせた。  新三郎は、応えようとせぬ。 「生来の驕傲《きょうごう》も、型にはまらぬ奔放《ほんぽう》の気象ならば、いずれは、大成に至るか、と思うて居ったが、親の盲目であったぞ。……穴隙《けつげき》を鑚《き》るにことかえて、おのが妹を犯すとは、何事か! 禽獣《きんじゅう》に劣ると申すもおろか! あまつさえ、自害と見せかけて、殺すとは、なんぞ! この世に、かくまでの暴虐《ぼうぎゃく》があるか!」  石舟斎が、志摩を犯して殺したのは新三郎だと断定したのは、一月あまり前に目撃した光景を思い泛《うか》べたからであった。  偶然、新三郎の住む離れの裏手を行き過ぎようとした石舟斎は、中から、すすり哭《な》く志摩の声をきいて、切り窓から、そっと覗いてみた。もう宵とは云えぬ時刻であった。  黙然として脚を組んでいる新三郎の前で、志摩は俯伏《うつぶ》していた。一瞥《いちべつ》した瞬間、そのすがたに、いまわしいみだらな乱れがあるような気がして、石舟斎は、はっとなったことだった。  新三郎が、切り窓の外の気配に、冷たい視線を向けたので、石舟斎は、そのままそこを離れた。しかし、名状し難い不快感は、後日まで、心にこびりついていて、はなれなかった。  いまにして、その光景が、何を意味していたか、明白となったのである。  石舟斎は、新三郎を罵倒《ばとう》しつつも、おのれの迂闊さをも責めないわけにいかなかった。  去年の春さき、新三郎が、唐突に、志摩を、いずれかの摂家《せっけ》へ、一年ばかり奉公させ、行儀見習いをさせてはいかが、と申出たのであった。石舟斎に、べつに反対する理由はなかった。新三郎は、志摩をともなって、京へ出かけて行き、数日して、戻って来ると、鷹司《たかつかさ》家の楊梅御殿《ようばいごてん》にあずけて来た、と報告した。石舟斎は、その報告を、疑わなかった。  一月前に、志摩をつれもどしたのも、新三郎であった。志摩が、新三郎の前で、哭き伏していたのは、それから間もなくのことであった。  石舟斎は、志摩がはたして楊梅御殿に奉公していたかどうか、疑わざるを得なかった。  いずれにせよ、もはや、手遅れであった。 「新三郎! この父に看破されたからには、おのれを裁かねばなるまいぞ!」 「自決せよ、と申されるか?」  新三郎の蒼白い頬に、薄気味わるい微笑が刷《は》かれた。 「畜生道に堕《お》ちて、なお、生をむさぼる存念か?」  石舟斎は、睨みつけた。 「それがしにむかって、父上が自決を迫る権利はありますまい」 「なんと申す!」 「それがしが、何も知らずに生い育ったとお思いならば、笑止!」 「………」  石舟斎は、みるみる顔色を喪《うしな》った。  その様子を、冷やかに見据え乍ら、新三郎は、云った。 「われら四子は、一人も、柳生の血を受け継いでは居りませぬぞ!」  二  石舟斎には、男子三人、女子一人の子があった。  嫡男新次郎|厳勝《よしかつ》は、衆を抜いた天稟《てんぴん》の持主であったが、十五歳で備前《びぜん》の宇喜多《うきた》秀家に懇望されて近習となったが、翌年初陣において、鉄砲で腰を撃たれ、不具となり、行方を断ってしまっていた。  次男新三郎と三男又右衛門|宗矩《むねのり》は、ともに、この小柳生城で育った。この兄弟は、性格も異っていたが、その技量もまた懸隔《けんかく》があった。冷酷無比の性情をそなえた新三郎の前で、温厚で思慮ぶかい又右衛門は、まるで小児のごとく、あしらわれて、一合《いちごう》すら撃ち合うことは不可能であった。  石舟斎は、先年、徳川家康から、嫡子秀忠の兵法師範役として招聘《しょうへい》されるや、自分に代って、三男又右衛門|宗矩《むねのり》を推挙したのであった。天才の新三郎を措いて、凡才の又右衛門をさし出したのは、又右衛門が、ただに兵法師範役たるにとどまらず、やがては、政治参与の任をも務めるであろう、と考えたからであった。  以上三人の男子は、石舟斎が、新介|宗厳《むねよし》であった時、質子《ちし》となっていた筒井順昭の大和生駒郡の城から、ともなって来た順昭の女《むすめ》由利女が生んでいた。  志摩だけは、由利女が逝ったのち、石舟斎が妾にした貧しい農家の娘の腹から生れていた。  ところが——。  新三郎は、自分たち兄弟は一人のこらず、柳生の血を受け継いではいない、とうそぶいた。  まさしく、それは事実であった。  柳生の血すじは、石舟斎をもって、絶えるのである。  ここで、煩瑣《はんさ》を承知で、柳生家の系図を辿《たど》れば——。  柳生家の元祖は、大膳|永家《ながいえ》といい、春日神社の神職であった。後醍醐帝の時に、仔細あって、小柳生庄の領地を失って、他国へ去った。その一族の庶子が僧となって、大和国笠置寺に入り、衆徒の列に加って中ノ坊といった。  元弘元年、後醍醐帝が、北条高時の逆難を避けて、笠置寺に潜幸《せんこう》した際、近くに、守護の任についてくれる武将はいないものか、と僧たちに下問した。  すると、中ノ坊がすすみ出て、「河内国金剛山の麓に楠木|多聞兵衛《たもんびょうえ》正成と申す者が在り、智将の名を挙《あ》げて居りまする」と言上した。そこで、帝は、正成《まさしげ》を召して、将帥とした。中ノ坊は、この功によって、小柳生の旧領を賜った。しかし、中ノ坊は、還俗《げんぞく》の意志なく、その兄に譲った。  その兄は、野武士の群に交っていたが、武術に長じていた、という。柳生永珍播磨守となって、百歳まで長生した。その子|備前守《びぜんのかみ》家重八十歳、家重の子|三河守《みかわのかみ》道永七十歳、道永の子|家実《いえざね》は、人となり勇略武毅《ゆうりゃくぶき》、比類のない武将で、三十余度戦場をかけめぐって、五百余のさむらい首を刎《は》ねた、という。その子光家も、光家の子|因幡守《いなばのかみ》重家も、また重家の子|美作守家厳《みまさかのかみいえよし》も、いずれも、胆力膂力ともに秀れて、その勇猛振りは、天下に鳴った。  美作守家厳の子が、すなわち石舟斎但馬守|宗厳《むねよし》である。  宗厳の前半生は、しかし、さむらいとして、最も不運であった。  永年、鎬《しのぎ》を削って闘って来た宿敵、大和生駒郡の筒井学舜房法印順昭に、麾下《きか》二十万石の精兵を挙げて、わずか七千石に足らぬ小柳生庄の山城を包囲された時、新介宗厳は二十余騎をひきいて、順昭の首級を狙って、忍辱山《にんにくせん》の本陣へ、夜襲をかけて、逆に、捕虜となった。まだ十六歳であった。  それから十年、新介宗厳は、筒井城に質子《ちし》として、とどめられ、順昭の嫡子順慶から、言語に絶する侮辱を受けて、堪えに堪えぬいた。  ゆるされて、筒井城から小柳生城へもどって来た新介は、新妻をともなっていた。順慶の妹由利女であった。  但馬守となった宗厳は、順慶に対する復讐心に燃えた。  筒井順昭が永禄二年に病死するや、宗厳は信貴山城の松永弾正久秀と呼応して、筒井勢と闘った。  しかし、永禄八年夏、松永弾正が、三好義継とともに、二条御所へ放火し、将軍義輝を弑逆《しいぎゃく》するにおよんで、宗厳は、おのが剣は乱のために把《と》らず、と自らをいましめて、それ以後、孤城から一歩も出なかった。  宗厳は城門をとざして、天下の乱と縁を断ち、剣をみがくことのみに専念したのである。  その頃まで、宗厳には、妻由利女とのあいだには、子が無かった。  家士たちは、口にこそ出さなかったが、宿敵筒井順慶の妹である由利女とは、表面上の夫婦にすぎず、一度も交っていないのだ、と解していた。  宗厳が、南部宝蔵院の覚禅法師|胤栄《いんえい》の紹介で、剣聖と称される上泉伊勢守秀綱を、おのが山城に迎えたのは、永禄十年——三十九歳の時であった。  柳生但馬守宗厳と上泉伊勢守秀綱との試合は、今日すでに、兵法を志す者で、誰一人知らぬはない。  宗厳は、三度びたたかって、三度び敗れた。  伊勢守は、この時、五十八歳であったが、宗厳に、一合すらも撃たせずに、その木剣をとり落させた。  二回の試合は、山城で行われて、さいごの試合は、宝蔵院の道場へかえった伊勢守を宗厳が追って行って、なされた。  その三回の試合に、伊勢守は、三回とも、同じ手法を以て、宗厳の木剣を、撃ち落したのであった。  宗厳が、無念と歯ぎしりしたのは、二回目までであった。  同じ負けるにしても、全く同じ手法をもって、木剣を奪われるのは、あまりにも心外であり、宗厳は、一夜、思念に思念を凝《こ》らし、これでよし、と工夫成って、宝蔵院へ去った伊勢守を、追いかけて行って、三度び挑んで、またもや、同じ手法で、木剣を足もとへ撃ち落されてしまったのである。  宗厳は、ここにおいて、小我をすて、伊勢守に欽仰帰依《きんぎょうきえ》して、入門を乞うた。  伊勢守は、西国へ旅立つ予定であったが、これを変更して、小柳生城へ臨んだ。  伊勢守の滞在は、一年半におよんだ。  この間に、宗厳は、伊勢守から、その新陰流の奥義《おうぎ》を、のこらず伝授された。  別れるに臨んで、伊勢守は、次の言葉をのこした。 「剣の極意は、無刀にあると存ずる。兵法は、剣を持って立ち向うは当然乍ら、剣を持つが故に、剣に恃《たの》み、剣に執着いたす。剣を持った時に、剣をすてる——つまり、無刀の心となる。もとより、身共も、この理法を明らかにして、一流の兵法を成すまでにはいたらず、もはや、老年におよんで、その望みも叶うまいか、と存じられる。お手前はまだ、身共よりも二十歳も若い壮年であり、柳生家は歴代長生とうかがって居るゆえ、どうか、研鑽《けんさん》され、闡明《せんめい》して、末代《まつだい》までの誉《ほまれ》を立てて頂きとう存ずる」  伊勢守は、二年後を約束して、去った。  約束通り、伊勢守は、二年経って、柳生谷をふたたび訪れた。  宗厳は、二年間の凄じい修業の成果を——無刀の勝に至る武道の深奥とその神妙剣を示した。  伊勢守は、嘆賞《たんしょう》して、 「いまこそ、お手前の剣は、天下無双と申せる。身共も遠く及ばぬ。爾今《じこん》は、この一流兵法を柳生流と称されるがよい」  と、云い、一国一人に限る新陰流の正統を、宗厳に譲った。  伊勢守は、二月あまり滞在して、立去った。  以上が、兵法者ならば、一人のこらず知っている柳生新陰流が創られた、あまりにも有名な話である。  三 「父上——」  新三郎は、その双眸《そうぼう》に、愈々《いよいよ》冷たい光を加え乍ら、云った。 「父上は、四十歳まで、わが子をお持ちにならなかった。しかるに、上泉伊勢守秀綱を、この城に招いて、本丸の一棟《ひとむね》を与え、一年半、師として、朝夕《ちょうせき》の礼をつくされるあいだに、母上は、嫡男《ちゃくなん》を生み、さらに、次男のそれがしを身籠《みごも》っていられる。伊勢守の神技に迫らんとして、剣の鬼と化している者に、妻をして、つぎつぎと孕《はら》ませる余裕が、どうしてあったか。奇怪とも不思議とも、申せますぞ。さらに、それから二年後、ふたたび、伊勢守が現れて、二月あまり滞在したあいだに、母上は、またしても、身籠って、又右衛門を生みましたぞ。……これは、いかなることか? 父上は、伊勢守に帰依欽仰するあまり、乞うて、おのが妻を呉れて、その種をもろうた、としか考えられませぬぞ。……左様、父上は、質子《ちし》として筒井順昭の城へつれて行かれた時、無慚《むざん》にも、男子の資格を喪失させられたのではありませんか!」 「………」  石舟斎の眉が、頬が、唇が、一時に痙攣《けいれん》した。 「されば、志摩もまた、父上の女《むすめ》ではない筈。それがしが、犯したとしても、禽獣の振舞いではありますまい。……志摩は、徳川家の旗本なにがしに嫁ぐよりも、いっそ、死にたい、とかきくどき申したゆえ、面倒になったそれがしが、手を添えてやったまでのこと。咎《とが》めを受けるとすれば、そのなさけでござろうか」 「………」  石舟斎は、なにか、烈《はげ》しい言葉をほとばしらせようとして、あやうく、歯裏《はうら》で制《と》めた。  しばしの息詰まる沈黙ののち、石舟斎は、ひくい声音で、新三郎に云った。 「道場に入って、待っていよ」  新三郎は、一揖《いちゆう》して、縁さきからしりぞいて行った。  石舟斎は、無量の感慨をこめた吐息を、ひとつもらした。  新三郎の言葉は、ことごとく適中していた。  新次郎厳勝も、新三郎正厳も、又右衛門宗矩も、まぎれもなく、上泉伊勢守秀綱の子であった。  十六歳で、筒井城へ拉致《らち》された宗厳は、その日のうちに、腐根の刑を受け、男子の能力を喪ったのである。筒井順昭は、歴代武勇無双を生む柳生家の血を、宗厳をもって、絶やさんと、計ったのである。  宗厳は、それが、くやしかった。  世間が知らぬこの秘密は、永久に隠蔽《いんぺい》しておいて、しかも、柳生家の名をいささかもおとさぬ器量の子をつくるべく、思案しつづけて来たのであった。  上泉伊勢守という剣聖が出現するや、宗厳の肚《はら》はきまったのである。伊勢守は、もとより、宗厳の異常の嘆願を、容易に承諾はしなかった。しかし、宗厳の熱意は、ついに、伊勢守の心をうごかしたのである。妻の由利女は、三十六歳にして、その処女の身を、伊勢守にゆだねたわけであった。  この秘密を知っていたのは、由利女附きの老女ただ一人であった。  老女は、深更にいたって、由利女を、伊勢守が泊っている本丸の一棟へいざない、夜明け前に、迎えに行ったのである。  処女妻を、師と仰ぐ人に与えた不能者の心懐は、到底説き明かせるものではない。  人間であるからには、嫉妬に心が燃え狂わなかった筈はない。宗厳は、その迷妄煩悩《めいもうぼんのう》に克《か》つために、おのが心身の一切を、剣の工夫に、ぶち込めたのである。  その修業が、家士たちを戦慄《せんりつ》させたくらい凄じかったのは、そのためであった。  秘密を知っている老女は、伊勢守が再度の滞在をおわって立去った直後、宗厳が、ひそかに斬りすてている。  ——新三郎が、どうして知ったのか?  石舟斎には判らなかった。  伊勢守の血を継いだ三子がすくすく育って行くあいだ、柳生谷も、天下の趨勢《すうせい》から、無縁ではあり得なかった。  宗厳が扶持を受け、合力《ごうりき》をした松永弾正が亡び、つづいて、足利義昭も滅びるや、柳生家の所領も、奪われた。  のち、織田信長の招きに応えた宗厳は、信長が本能寺の兵燹裡《へいせんり》に没すや、遠く、九州の大友宗麟に属した。金子で三千石の扶持を送られること数年におよんで、大友家が島津氏に侵略されて、仕送りもとだえた。  やがて、豊臣秀吉の異父弟大和大納言秀長が、大和に入るや、宗厳は、所領をことごとく没収されて、完全な無領の郷士になりさがってしまった。  のこったのは、山城ひとつだけであった。  大半の家臣は去り、のこった一族郎党は、山林を伐り拓いて、極度に乏しい自給自足の生活をつづけて来たのであった。  ただ、宗厳にのこされた宝は、わが子であった。嫡男新次郎は何処かに姿をくらましてしまったが、次男新三郎と三男又右衛門が、その剣の天稟を、しだいに顕《あら》わして来るよろこびは、宗厳の唯一のものであった。そして、又右衛門が、徳川秀忠の師範役となり、五百石に封ぜられたのを機会に、宗厳は、石舟斎と改名したのであった。   兵法の舵《かじ》をとりても、世の波を、渡りかねたる石の舟かな   兵法は、沈みてあるぞ尊けれ、千代のながれに、朽ちぬ石ふね  三度び、所領を失ったおのれの世渡り下手を喞《かこ》って、おのがおろかさを、石舟にたとえた宗厳は、しかし、柳生家の武勇の名は、新三郎と又右衛門によって、高く挙げられることを信じて疑わなかったのである。  おのれは、すでに、七十歳であった。石舟斎にのこされているのは、新三郎に、「柳生流印可」と上泉伊勢守から受けた「新陰流相伝の書」及び「新陰絵目録」を授けることだけであった。  その今日にいたって石舟斎は、この衝撃を蒙った。  あらためて、わが身の不運を顧みざるを得なかった。  森《しん》としずまった広い道場の中央に坐して待つ新三郎の前に、やがて、姿を現したのは、石舟斎ではなく、高弟中の俊髦《しゅんぼう》田辺三十郎であった。  田辺三十郎《たなべさんじゅうろう》は、御堂達也《みどうたつや》とともに、柳生谷の竜虎《りゅうこ》と称せられていた。まだ、二十三歳の鳳雛《ほうすう》であった。新三郎が、この十年間、自ら修業対手となって、そのめざましい練達ぶりを、つぶさに見とどけて居り、今日では、充分に互角の立合いをするまでになっている。  田辺三十郎は、二間の距離をとって、正座すると、 「大殿のご命令により、真剣の試合を所望つかまつります」  と、云った。その面貌は、異様にこわばっていた。  新三郎は、無言で頷《うなず》くと、すっと、立った。  田辺三十郎は、つづいて、立つと、 「ご免——」  とことわって、さきに、差料《さしりょう》を抜きはなって、ぴたっと青眼《せいがん》につけた。目上に対するこれが作法であった。  新三郎は、ほんのしばし、その構えを見|戍《まも》っていてから、 「遠慮は無用だぞ、三十郎——」  と、云い置いて、腰の剣を、すらっと鞘走《さやばし》らせるや、左手|掴《づか》みに、切っ先を落した。  地|摺《ず》りにとられたその白刃が、峰を下にしたのを看《み》て、田辺三十郎の眉間が、微かに紊《みだ》れた。 「手加減は、侮辱でありまするぞ、若殿!」  憤《いきどおり》りを罩《こ》めて、叫ぶように云った。 「手加減はせぬ」  新三郎は、にやりとした。  この時、音もなく、入って来たのは、御堂達也であった。  これは、新三郎の背後に一間あまりへだてて、立った。  新三郎は、それに気づいたか気づかぬか、左半身になり、左腕一本に、反りをかえした剣を托し、地摺りに落して、その双眸《そうぼう》を細めて、微動もせぬ。  これに対して、田辺三十郎は、浮身の構えで、切っ先を、ほんのわずかに、浮き沈みさせている。  田辺三十郎としては、新三郎から手加減はせぬ、と云われても、峰を下にされては、手加減されているとしか、受けとりようはなかった。  したがって、自ら先に、撃って出るのは、ためらわれた。  新三郎の方から、撃って来るのを、待つよりほかはなかった。  試合という名目であるが、討ち取れという命令であった。そのために、御堂達也が、背後から、抜きつけの業《わざ》を使うべく、隙を窺《うかが》っているのである。  いかに、新三郎が、抜群の腕前をそなえていても、前後から挟撃《きょうげき》されては、遁《のが》れるすべはない筈であった。  田辺三十郎と御堂達也は、石舟斎の前で籤《くじ》によって、その位置をえらんでいた。正面から向う者が、新三郎によって殪《たお》される公算が大であったからである。  すなわち、田辺三十郎は、おのが身をすてて、御堂達也に、新三郎を斬らせようとしていたのである。  ところが、新三郎に、手加減としか考えられぬ峰撃ちの構えをとられて、初太刀をためらうことになった。  ……対峙《たいじ》は、四半刻以上も、つづいた。  背後の御堂達也が、すっと、一歩迫った。  御堂達也は、新三郎が、白刃の峰をかえしていることを知らなかった。田辺三十郎がいつまでも初太刀を惜しんでいるのに、やや苛立って、抜きつけの気配を、露骨に、新三郎の背中へあびせたのである。  刹那——新三郎の右手が、目にもとまらぬ迅さで、動いた。  御堂達也が、抜きつけるのと、新三郎が五体の姿勢をそのままに、脇差を抜いて、後へ投げるのが、全く同時であった。  次の一瞬、大上段にふりかぶった正面の田辺三十郎へむかって、新三郎の逆刃は刎ねあがっていた。  田辺三十郎が、脇差を抜いて後へ投げる新三郎の動作に、一瞬おくれたのは、御堂達也が背後から襲う卑怯《ひきょう》に対して、新三郎にこれに応ずる迅業《はやわざ》を使わせるのが礼儀と思った為かも知れない。  御堂達也は、胸いたをふかぶかと刺されて、抜きつけた太刀を杖にして、呻きつつ、海老のようにからだを曲げたし、田辺三十郎は、顔面を、頤《あご》から額へかけて、まっ二つに斬られて、のけぞった。  新三郎は、陰惨な眼眸《まなこ》を、若き竜虎へくれておいて、しずかな足どりで、道場を出て行った。  永久に還らぬことになり乍ら、新三郎は、山城を出ても、一度も、振りかえろうとはしなかった。  四  新三郎正厳の消息は、それきり、杳《よう》として絶えた。  金吾中納言秀秋の小早川家に、小柳生五郎右衛門と名のる若い兵法者が身を寄せて、「逆風《ぎゃくふう》の太刀」という異様な剣技を示して、人々に舌を巻かせている、という噂がきこえて来て、石舟斎は、  ——あるいは、もしや?  と、思ったが、あえて、人を遣って、たしかめようとはしなかった。  慶長五年九月十五日、関ヶ原において、徳川家康と石田三成は、天下分け目の雌雄を決した。  この日、柳生又右衛門宗矩は、老父石舟斎とともに、二百の兵を率いて、戦列に加った。  この合戦に、家康は、絶対の勝算があった。  すなわち、松尾山に陣を敷く小早川秀秋から、西軍を裏切る確約をとっていたからである。戦闘が開始されたのは、午前八時頃であった。  まだ霽《は》れやらぬ朝霧の中で、両軍は、怒涛と怒涛を激突させた。太田和泉守の記録を辿れば、 「敵味方おしわけ、鉄砲をはなち、矢さけびの声、天をひびかし、地をうごかし、黒烟立ちこめて、日中もくらやみとなり、敵も味方も入合ひ、干戈《かんか》をぬき持ち、押しつまくりつ、攻め戦ふ。切先より火焔をふらし、日本国二つに分けて、ここを詮度《せんど》と、きびしくたたかひ、数度の働きこの節なり」  という次第であった。  ようやく時刻は亭午《ていご》を過ぎんとした。  松尾山に陣どる小早川秀秋は、なお、動かなかった。  石田三成は、戦機熟するのを見て、あらかじめ約した通りに烽火《のろし》を、天満山に挙げたが、秀秋は、これに応ずる旗色をすこしも示さなかった。大谷吉継、小西行長らも、急使を松尾山に馳せさせたが、なんの効果もなかった。  しかし、秀秋はまた、徳川方へ対しても、すこしも、裏切りの模様を示さなかった。  朝のうちは、おちつきはらっていた家康も、午にいたって、近習久留島孫兵衛が、先手より馳せ戻って来て、「金吾中納言の旗色が、何とも疑わしゅう存じまする。異約せんも料《はか》り難く見受けられ候」  と言上するや、にわかに、無意識に、親指の爪を噛みはじめた。  家康は、弱冠の頃より、味方が危くなると、親指の爪を噛む癖があったのである。  金吾中納言秀秋が、東軍・西軍いずれへも、旗色を明らかにしなかったのは、理由があった。  すなわち、秀秋は、おのが陣所に在って、捕虜になっていたのである。  半年あまり前に、食客として身を寄せさせておいた小柳生五郎右衛門なる兵法者に、背後から、頚根《くびね》へ白刃をあてられ、身動きも出来なくなっていたのである。  秀秋が、色を喪《うしな》いつつ、いずれの廻し者か、と問うと、いずれの麾下《きか》にも属さぬとこたえ、 「治部少輔(三成)に兵を寄せておいて、内府(家康)へ寝返ろうとする卑劣の根性が、許し難い、と存ずる」  ときめつけ、重臣、近習らが一歩も動くことさえも許さなかった。  戦いがたけなわになるや、秀秋は、 「いずれへでもよい、その方の好む方へ、旗色を明らかにいたそう」  と、申出たが、蒼白い面貌の兵法者は、薄ら笑い乍ら、 「さあ、いずれにいたそうか」  と、焦らせたばかりである。  ついに、家康が、しびれをきらして、鉄砲頭|布施《ふせ》孫兵衛に命じて、松尾山へ向って、つるべ撃たせた。  しかもなお、兵法者は、秀秋に、いずれへとも指示しようとはしなかった。  やがて、二本の剣を交叉させた指物をはためかせた武者が一騎、東軍方から、疾風のごとく、松尾山へ馳せ寄って来て、 「これは、徳川家康が使者柳生又右衛門宗矩と申す者。戦いすでにたけなわにして、勝負またとりどりなるに、筑前中納言殿には、裏切りの下知なきは不審なり。もし欺き給うにおいては、弓矢八幡、刺し違え申さん!」  と、大音声に呼ばわった。  これをきいた兵法者は、すっと、秀秋の頚根から、白刃を引いて、 「末代まで、裏切り者の汚名をのこされい!」  と、云いすてた。  秀秋が、近習を諸隊長に遺し、いよいよ裏切りの命令を下し、平岡、稲葉の両隊を左右先頭となして、西外に向って吶喊《とっかん》して下った頃、件《くだん》の兵法者は、とある巨松の頂き近い高処《たかみ》に腰かけて、梢のあわいから、この天下を分ける戦闘を、その冷たい眸子《ひとみ》に映していた。  五  さて——。  われらが猿飛佐助が、伏見城へ忍び入って、名実ともに天下人になった徳川家康の動静を窺《うかが》いはじめたのは、明石|掃部助全登《かもんのすけたけのり》が九度山に真田幸村をおとずれて、ほどなくの頃からであった。  一月あまり、毎夜のように、忍び入った佐助は、しかし主人に報告しなければならないような光景を、目撃する機会に接しなかった。  ——今宵も、内府が、年増後家を抱くのを眺めるのに、とどまるじゃろう。  そう考え乍ら、その夜も佐助は、本丸の内府|館《やかた》の天井裏にもぐり込んだ。  家康という人物は、どういうものか、二十歳前後のういういしい娘に目をくれなかった。目をつけるのは、身分のひくい家士の妻女や、行きずりに出会った商家や農家の女房であった。のみならず、目をつけると、きわめて無造作に、 「お前の妻《さい》を、わしに、くれぬか」  と、たのんだ。  たいがいの場合は、要求が容《い》れられたが、時には、きっぱりと拒絶された。すると、家康は、「そうか」と頷いて、けろりとしていた。 「二三日ならば、お貸しつかまつります」  と、云われたことがある。 「うむ。では、借りよう」  家康が、その女房と褥《しとね》をひとつにしたのを、佐助は、天井裏から、見下している。  家康は女房の前をはだけさせたとたん、 「しもうたぞ」  と、云った。 「わしは、そなたを餅肌と思うてそなたの亭主から借りたが、これは、ちと黒すぎる」  のこのこと、起き上るや、手をたたいて近習を呼び、 「この女を、そちに、四五日貸してつかわす。せいぜい、愉《たの》しむがよい」  と、申し渡した。  その態度はいかにもさばさばしたもので、佐助は、すこしも反感をおぼえなかった。  その夜も、さして期待を抱かなかった佐助は、家康が人払いをして、柳生但馬守宗矩をそば近くに呼び寄せているのを見出して、にわかに緊張した。  宗矩は、関ヶ原の大戦の論功行賞にあずかり、柳生本領二千石を封ぜられ、また一千石の加増を受けていた。  但馬守に任官し、将軍家兵法師範の重職に登用された宗矩は、三十一歳の男ざかりであった。  家康は、三方の餅を、把《と》って、むしゃむしゃ喰べ乍ら、ちょっと何か考えている風であったが、なにげない口調で、 「近いうちに、千姫を、大阪城へ、遣《や》ることは、きいて居ろう」  と、云い出した。 「うけたまわって居りまする」 「太閤との約束じゃ。おひろい(秀頼)にくれてやらねばならん」 「お目出度き儀に存じまする」 「それが、すこしも、目出度うはない」  宗矩は、そう云われて、訝《いぶか》しげに、主君を見かえした。  家康は、餅をひとつ平げて、なかば無意識に、次の餅を把ろうと、三方へ手をのばしたが、思いかえして、 「わしは、千姫を、おひろいにくれたくない。おひろいは、まあ、べつに、なんと申すこともないが、その母親がいかぬ。あれは、ただの女性《にょしょう》ではない。千姫の姑《しゅうとめ》としては、夜叉じゃの。千姫を、どのようにむごたらしゅう虐《いじ》めるか、いまから、手にとるようにわかる」  家康は、むかしから、淀君を敬遠していたし、淀君の方も家康を悪《にく》んでいた。  宗矩は、俯向いてきいていたが、これは主君の取越し苦労ではなかろうか、と考えていた。  秀忠の室は、淀君の妹である。すなわち、千姫は、淀君にとって、実の姪である。しかも、まだ五歳の幼女であれば、手許にひきとれば、次第に可愛さが増すのであるまいか。 「但馬」 「は——」 「わしは、おひろいに、替玉をくれてやろうと思う」 「………?」 「大阪城の者どもは、淀君はじめ一人も、千姫の貌《かお》を視《み》た者は居らぬ。されば、替玉を使うても、露見はせぬ。どうじゃ、但馬、おひろいにふさわしい嫁御を、どこからか、ひろうて来てくれぬか」 「は——」  宗矩は、とまどった。  千姫は、江戸城で生れるとすぐに、初孫《ういまご》が見たいという家康のために、はるばる、伏見城まで、乳母の手に抱かれて、つれて来られ、そのまま、今日まで、母の乳房を知らずに、育っていた。  父母を知らぬ千姫のあまえる対手は、祖父だけであった。  家康が、手離したくない気持は、宗矩にも、よくわかった。さりとて、主筋にあたる豊臣秀頼に、替玉を押しつけるのは、いかなものであろうか。  宗矩は、ためらわざるを得なかった。  しかし、主君の命令であった。  ——やむなし!  と、ほぞをきめた。  天井裏では、せむしの若い忍者が、憤然《ふんぜん》となっていた。  ——そうやすやすと、秀頼公に替玉姫など、おしつけさせはつかまつらぬぞ、内府殿!  半刻のち、但馬守宗矩は、伏見城の乾《いぬい》門から、ただ一騎で、出た。  満月のある明るい夜空に、馬蹄の音を撒き乍ら、駅路《うまやじ》をいっさんに、栗毛をとばして行った宗矩は、醍醐三宝院《だいごさんぽういん》の門前にさしかかった時、路上に、閃く白刃を、みとめて、たづなを引いた。  一個の黒影を、二個の黒影が、挟撃しようとしていた。  挟撃側は、抜刀していたが、襲われる方は、両手を空けたなりであった。  いずれも、牢人である。  月闇《げつあん》を、じっと透《すか》し見た宗矩は、はっとなった。  襲われている者の痩身に、なつかしい記憶があった。  ——兄者!  宗矩は、胸裡《きょうり》で、叫んだ。 「抜けいっ!」  正面の敵が、威嚇的に、大上段にふりかぶって、吼《ほ》えるように呶号《どごう》した。  背後の敵は、猫背になり、下段構えで、じりじりと詰め寄っている。  宗矩は、新三郎の左手が、やおら差料の刳形《くりがた》へかかり、それを、ゆっくりと廻して、反《そ》りをうたせるのを視た。  ——逆風《ぎゃくふう》の太刀を!  宗矩は、固唾《かたず》をのんだ。  宗矩は、もう一人、目撃者が、おのが後方に立っているのに気がつかなかった。伏見城から、六無の迅足《はやあし》で尾《つ》けて来た猿飛佐助であった。 「ええいっ!」 「やあっ!」  前後の敵が、同時に満身からの気合を宙につんざいて、地を蹴った。  瞬間——その二刀の閃きに合わせて、新三郎の腰から噴いた剣が、その痩身を軸《じく》にして、完全な円形を描いた。  前後の敵は、ともに、大きくのけぞった。  正面の一人は、胸もとから摺《す》りあげて来た切っ先に、頤《あご》から額まで断ち截《き》られて。  背後の一人は、頭上から降って来た切っ先に、額から頤まで割りつけられて。  新三郎は、一閃の旋回刀をもって、二人を斬り仆《たお》したのである。 「兄者! お見事!」  宗矩は、思わず叫んだ。  後方で、佐助が、ぴたっと、地面へ、身を伏せた。  六  六年ぶりの邂逅《かいこう》であったが、新三郎は、べつに、挨拶らしい挨拶もしようとはせず、歩き出していた。 「この京におすまいですか?」  宗矩が訊ねると、すぐそこだ、とこたえた。来いとも来るなとも云わなかったが、宗矩は、なんとなく跟《つ》いて行くことにした。  幼い頃から、この兄弟は、むつまじく話し合う時間を持ったことがなかった。新三郎が、常に孤独を好み、団欒《だんらん》を避けたからである。また、宗矩は、この冷たい兄に対して、絶えず劣等感を抱いていたのである。  いまは、兄は尾羽打ち枯らした牢人者であり、弟は但馬守となり将軍家師範役である。  兄の業前《わざまえ》が、なおいささかもおとろえていない証左を、いまの殺陣に見とどけたものの、宗矩は、もはや威圧される劣等感をおぼえはしなかった。相変らずのむっつりした不愛想な態度を、ふと、侘しいものに思う余裕があった。  寺から寺へつづく長い土塀に沿うて行き、やがて、細い横道へ折れて、押しつぶされたような、文字通りの茅屋《ぼうおく》の前に来て、 「ここだ」  と、示されると、宗矩は、はっきりと、兄とおのれの世界が別になっているのを意識した。  古稀《こき》をすぎたとおぼしい、からだを二つに折った薄穢《うすぎたな》い傭《やと》いの下婢《かひ》が出迎えた。  二間しかない家で、燭台の乏しい灯に照らされたさまは、むざんといえるくらい荒穢《こうわい》をきわめていた。何ひとつ調度はなかった。  破れた腰屏風《こしびょうぶ》が立てられ、その蔭に、夜具が敷かれてあるだけであった。  なにげない会話をふたつみつ交してから、宗矩は、 「柳生谷におもどりなさらぬか。父上も、もうお年でござる」  と、すすめた。  宗矩は、兄が、自害した志摩のことで父と口論を交しているうちに狂気して、田辺三十郎と御堂達也の竜虎を斬ってすてて出奔《しゅっぽん》した、ときいていたのである。 「おれのような男は、こういう廃屋で、くたばるのが、ふさわしいようだ」 「兄者ほどの達人が——」  宗矩が、いたましげに云いかけたおり、屏風の蔭から、人の起き上る気配がした。誰かが寝ていたのである。  ひょっこりあらわれたのは、まだ四五歳の幼女であった。つぶらなひとみを、ぱちぱちとまたたかせて、宗矩を見たが、すぐに、新三郎の膝へ来て、ちょこんと腰かけた。  はっとするほど美しい貌だちであった。死霊にとりつかれているような陰惨な新三郎の容子《ようす》とは、まことに対蹠《たいせき》的であった。 「これは、兄者の——?」 「いや、志摩が生んだ……」 「志摩が!……志摩には、男があり申したのか。なぜ、打明けてくれなんだか!」  宗矩は、妹が一年ばかり鷹司家の楊梅御殿に奉公していた、ということをきいていた。あるいは、この幼女は、鷹司家の者から、生まされたのかも知れない、と思った。  宗矩は、微笑して、幼女に、 「わしは、そなたの伯父じゃ。……なんという名じゃ?」  と、訊ねた。 「千草《ちぐさ》」 「千草か、いい名じゃ」  そう云った瞬間、宗矩の胸中に、はっと、ひとつの直感が生れた。  ——この子ならば、豊家おひろい夫人にしても、すこしもはずかしくはない! これほど可愛らしゅう、気品のある子は、滅多に見つかるものではない。  宗矩は、気色を革《あらた》めると、 「兄者、卒爾《そつじ》なお願いをつかまつる」  と、云い出した。 「この子を、身共に下されぬか?」 「………」 「大阪城へ送り、秀頼公の簾中《れんちゅう》にいたす」  宗矩は、ずばりと云った。  新三郎は、眉宇《びう》をひそめた。 「どういうのだ、それは——?」 「実は……」  宗矩は、家康の内意を、打明けた。  きいているうちに、新三郎の表情が、珍しく、烈しく動いた。  きき了るや、新三郎は、なぜか、にやりとした。冷たい、凄みのあるその微笑の意味はもとより、宗矩の読みとれよう筈もなかった。 「承知した」  新三郎は、こたえた。 「ご承知か、忝《かたじけの》う存ずる。これから、ただちに、この子をともなって、伏見城へひきかえし、上様にお目にかけることにいたす」 「いや——」  新三郎は、かぶりをふった。 「今夜、つれて行くのは、危険であろう」 「と申されると?」 「お主は、尾《つ》けられて居った。それに気づかぬとは、将軍家師範ともおぼえぬ」 「………」 「明朝、おれが、伏見城へ、送りとどける」  新三郎は、そう云って、千草のやわらかい黒髪をやさしくなで乍ら、 「豊臣家のおひろい夫人か——。貴賎《きせん》は天運にあり。生れた時から、さだまったものとみえる。他人の手で小細工しても、所詮は、むだとみえる」  と、呟いた。  もし、その独言の意味を、宗矩が、判ったならば、慄然《りつぜん》となったに相違ない。  七  当代記によれば——。  慶長八年七月二十八日朝、大阪秀頼へ将軍孫女祝言也。これは将軍息大納言秀忠公息女也。  伏見より船にて大阪へ移らる。  その模様については——。千姫が乗せられたのは五百石船であったが、婚礼の諸具は、なお、積みきれなかった。大久保相模守|忠隣《ただちか》、乗輿《じょうよ》にしたがう。西国大名らが、河辺を警固し、黒田筑前守長政は、弓槍鉄砲おのおの三百を以て、これを守った。堀尾信濃守は、人夫三百に耜《すき》を持たしめて、先行した。船の通り難いところにいたって、耜をもって、開導するためであった。  大阪城では、千姫が至る大手の橋から、本城の玄関にいたるまで、白綾を敷きつめて、歓迎の意をあらわした。  ところが、船は、予定時刻には、大手の橋に到着しなかった。  到着したのは、翌日の午後も、おそくなってからであった。  どうしたわけか、船は、伏見を出て、一里も行かぬうちに、停められたのである。  必死の面持《おももち》の急使が、船と伏見城との間を、三度も四度も往復するのを、沿岸警備の士たちは、異変が起ったものと、不安に見|戍《まも》ったことだった。  伏見城内に、のこした筈のほんものの千姫が、いつの間にか、ちゃんと、船に乗っているのを、柳生但馬守宗矩が、発見したのである。替玉の千草は、煙のように、消えうせていた。  替玉を送ることは、家康、宗矩、および千姫附きの老女二人しか知らなかった。替玉とすりかえられる命令を受けていたその老女二人が、いつの間にか、衣裳部屋へ、高手小手に縛られて、ころがされていたのである。したがって、ほかの女中たちは、千姫が、船へのせられるのを、当然のこととして、おのおのの任務を忠実に勤めたのである。  まだ五歳乍ら、輿入れする花嫁であるから、千姫は、白無垢《しろむく》をきせられ、綿帽子をかぶせられ、顔をかくされていたので、別れの挨拶を受ける家康自身も、これを替玉とばかり信じていた。  隠密裡《おんみつり》に企てた計画であった。家臣大勢を奔《はし》らせて城内を探索させることはできなかった。  一人但馬守宗矩が、かけめぐって、千草の行方をもとめても、ついに、徒労であった。  家康は、平伏した宗矩を前にして、長い間、無言で、しきりに、親指の爪を噛んでいたが、 「やむを得ぬ。千姫は、やはり、おひろいの女房になるべくさだめられていたのであろう。船を、そのまま、大阪城へ、やれ」  と、云ったことだった。  ほんものの千姫を乗せた船が、伏見城を出た頃、猿飛佐助は、さらって来た千草をせなかのこぶに乗せて、醍醐の茅屋に至っていた。  案内も乞わず、木戸をくぐって、そっと、庭へまわった。  後手で手を組んで仰臥《ぎょうが》していた新三郎は、はじかれたように起きあがると、かっと大きく双眸《そうぼう》を瞠《みひら》いて、佐助を凝視《ぎょうし》した。  佐助は、しきりにまばたきし乍ら、 「それがし、真田左衛門佐幸村が家来にて、猿飛佐助と申す」  そう名のって、千草を、縁さきへおろすと、 「失礼つかまつる」  ペコリと頭を下げておいて、のこのこ立去ろうとした。 「待て!」  新三郎は、鋭く呼びとめた。 「この子を、奪い取って来たのは、幸村の差し金か!」 「いや、この猿飛佐助が料簡《りょうけん》でござる。どんなに美しゅう生れて居っても、贋《にせ》ものは所詮《しょせん》贋ものでござる。玉の輿に乗っても、幸せにはなれ申さぬ。……やはり、大阪城へ、まことの姫君をお送りするように、はからい申した」 「忍者!」  新三郎は、にやりとした。 「もし、この子が、まことの千姫で、伏見城に育ったのが、贋ものであったら、なんとする」  佐助は、額に皺を寄せ、眉を八の字にすると、まどわしげに、新三郎を見上げた。頭がどうかしている、と疑ったのである。 「きいてもらおうか、忍者。……ある男が、実の妹とばかり信じていた娘が、赤の他人であったと知って、情念をあふられるままに、これを犯して、孕《はら》ませた。外聞をはばかることゆえ、その娘をつれ出し、大津あたりの百姓家で、こっそりと、生み落させた。その時、たまたま、江戸大納言の息女が伏見に在る将軍家へ、初孫として生れた顔をみせに、供揃え美々しく、やって来ていた。同じ、乳のみ児であり乍ら、こうもさだめがちがうものか、と感慨を湧かせた男は、率然《そつぜん》として、悪心を生じ、このふたりの乳のみ児をすりかえることを決意した。……そして、それは、まんまと、成功した」 「………」 「五年の歳月が流れた。いまは、贋ものは、ほんものとなり、ほんものは贋ものとなった。皮肉ではないか、忍者。——ほんものは、やはり、ほんものの道を歩むかと、のぞまれるままに、伏見城へかえしたところが、忍者、貴様のよけいな振舞いで、また、贋ものに逆もどりだぞ。…… はっはっはっ」  名状し難い異常な哄笑を噴かせた新三郎は、わらいをおさめた瞬間、差料をつかみとりざま、佐助へむかって、飛鳥のごとく、躍っていた。 「おっ!」  佐助の小躯《しょうく》は、翼があるように、高く翔《か》けあがって、木戸のむこうへ、消えた。  それから、しばらくのち、佐助は、額につけられた薄傷《うすで》へ、唾をつけ乍ら、のこのこと、伏見街道を、ひろっていた。  あの兵法者の言葉が、うそかまことか、佐助には、判断がつかなかった。  ——もし、まことであったら……。  佐助は、口をとがらした。  ——わしが、間抜けであったことになるのかな? しかし……。  佐助は、目を上げて、眩しい真夏の光の盈《み》ちた青空を仰いだ。 「わしが、武田勝頼のせがれであるという事実は、べつに、こうして歩いているわしにとって、どうということもないわい」  左様、空もひろく、野もひろいこの景色の中で、一人、のこのこと、足をはこんでいるこの土くさい姿は、きわめて微小な存在でしかなかったのである。   百々地三太夫《ももちさんだゆう》  一  春昼、九度山麓の草庵《そうあん》は、静かであった。  左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》は、ひもといていた孫子から顔を擡《あ》げて、平庭のさきに咲きほこる八重桜を眺めた。  樹齢もさだかでない老樹であったが、咲きほこった見事さは、ねむったように穏かなこの里景色を、一夜にして、一変させる勢いがあった。  老いてなお、みじんの衰えもみせぬこの華麗な桜樹を、じっと眺めるうちに、幸村の脳裡《のうり》は、ふっと、一人の老いたる忍者を連想した。  その時、幸村は、頭上に——茅葺《かやぶ》きの屋根を踏む者があるのに、気づいた。  幸村は、動かず、冴えた眼眸《まなざし》を、桜花に送ったまま、待った。  無言の気合が、屋根をつらぬいて、幸村の五体にひびいた。  次の刹那、幸村は、二本の忍者槍を履《は》いた佐助が、桜樹めがけて、およそ五間の宙を翔《か》けるのを、視た。  二本の忍者槍が、幹に、ぐさと突き立った。とみた瞬間、佐助の小躯は、はねあがって、花冠《かかん》の中へ消えた。  幸村は、花冠が、烈しくゆれるのを見まもり乍ら、脇差の鯉口だけを切っておいた。  花冠は、さらに烈しくさわいで、吹雪のように花びらを散らせて、鎮まった。  花冠の中から、後手に縛りあげられた男が、するすると、綱でつり下げられて来たのを眺めて、幸村は微笑した。  しかし、地上へ蹠《あしうら》がとどくやいなや、男が、急に身もだえて、幹へすり寄ろうとするのを視て、幸村は、はっとなった。  幸村が、思わず立ち上るのと、男が、何か黒いものを幹へ吐きかけておいて、それへ、おのが顔を叩きつけるのが、同時であった。  花冠の中から、佐助が、飛び降りて来て、地上へ仆《たお》れた男を仰臥《ぎょうが》させ、 「しもうた!」  と、舌打ちした。  男の面貌《めんぼう》は、無慚《むざん》に爛《ただ》れて、ふた目と見られなかった。義歯に匿《かく》していた毒液を幹へ吐きかけ、それへ、おのが顔を叩きつけて、つぶしたのである。  佐助は、こういう場合の癖で、しきりに、せわしく、まばたきし乍ら、縁さきに立った幸村の前へ、事切れた曲者を、かついで来た。 「生捕りそこねて、申しわけありませぬ」  詫び乍ら、佐助は、念のために、死体を俯伏《うつぶ》させて、忍び装束《しょうぞく》を剥《は》いだ。多くの忍者が、背中に、観世音菩薩をいれずみするならわしがあり、その御像は、その属する党族によって、それぞれ、すこしずつ、貌《かお》かたちがちがっていたのである。  ところが、この忍者の背中には、意外にも、菩薩の代りに、奇怪な人面牛身像が彫られてあった。  幸村は、このようなほりものをした忍者がいることを知らなかった。しかし、桜花を眺めて、ふっと連想した一人の老いたる忍者を、今また、甦《よみがえ》らせるのに、この奇怪な人面牛身像は、役立った。 「佐助、葬ったならば、部屋へ参れ」  幸村は、命じておいて、几《つくえ》の前にもどると、脇の書棚から、ひと綴りの画帖をとり出して、披《ひら》いた。それは、丹念に踏査して描いた地図であった。  幸村が目を落したのは、伊豆国であった。  しばらくして、佐助が上って来た。  この草庵は、一族が真田紐を作っている館《やかた》から、二町あまりはなれていて、沈思孤坐を好む幸村のかくれ住いであった。佐助は、影の形に添うように、幸村の身辺の警護の任にあたっていたが、曲者が忍び寄って来たのは、今日が、はじめてであった。  幸村は、佐助がかしこまってからも、なお黙然として、伊豆の地図を眺めていたが、やがて、 「佐助は、百々地《ももち》三太夫、という忍びの名を、きいたことがあるか?」  と、訊ねた。 「寡聞《かぶん》にして、耳にして居りませぬ」 「齢《よわい》は、もはや、七十《こき》に達して居ろう。曾《かつ》て、お前の恩師戸沢白雲斎と、天下無双の秘術を争うて、互角《ごかく》に分けた」 「………」 「伊豆の修禅寺に隠棲して、二十余年になる。近年は、易学に通暁し、観相して死期まで当てるという噂を、きいたが、事実か否か、わからぬ。おのれの忍び術を継ぐ者も幾人か養っているそうだが、あるいは、いま、お前が捕えそこねた者が、その一人かも知れぬ。百々地三太夫ならば、配下にあのようないまわしい刺青《いれずみ》をさせないでもない、と想像できる」 「………」 「もし、そうだとすれば、百々地三太夫は、徳川内府の要請を容れたと、考えねばならぬ。これは、ただごとではない。……百々地三太夫を、こちらの味方につけねばならぬ」 「………」 「佐助、お前の任務であろうな、これは——」  幸村は、そう云って、みにくい矮小《わいしょう》の家来を、凝視した。 「もし、味方につけることが叶いませぬ時は——?」  佐助は、問いかえした。 「お前は、人を殺すのが苦手な奴であったな」  幸村は、笑った。 「老いたりとはいえ、百々地三太夫ともあろう強者が、むざと、佐助ごときに、殪《たお》される筈もあるまい。それならば、はじめから、刺客たることは断念して、会いに行くか。天下の帰趨《きすう》でもうらなって参れ」 「お主《しゅう》様!」  佐助は、急に、胸を張った。 「百々地三太夫の生命を、奪って参りまする!」 「おそらく、叶うまい」 「いいや、八幡、誓って!」  佐助は、憤然として、云った。 「佐助——」  ここで、幸村は、厳粛な語気になった。 「百々地三太夫は、お前の祖父武田信玄を殺し、次いで、上杉謙信を屠《ほふ》り、さらに、明智光秀をして、本能寺に織田信長を襲わしめ、その光秀をも要殺した忍者だぞ」 「……?」  佐助は、唖然として、幸村を見かえした。  たった一人の忍者の手で、後世までもその武名をのこすであろう卓抜した武将を、その一人さえも弑《しい》すことはむずかしかろうに、四人までも殪すなどとは、到底信じ難かった。  しかし、信頼する主人が、嘘をつくとは思われなかった。 「信じられまい、佐助。しかし、これは、わしが、調べてつきとめたかくれもない事実だ。天下の趨勢は、百々地三太夫という渺《びょう》たる一忍者によって、一転反転させられている」  幸村は、語ってきかせた。  佐助は、固唾《かたず》をのんで、耳を傾けた。  二  百々地三太夫は、尋常の家の生れではなかった。  その先祖は、那須五郎であった。那須五郎は、元暦のむかし、源平屋島の戦いに、敵の扇を射中《いあ》てて、美名を天下後世に揚げた与一宗高の裔《すえ》で、足利尊氏に属し、勇武を以てきこえた若武者であった。  正平十年正月、足利尊氏は、おのが庶長子|直冬《ただふゆ》にそむかれた。直冬は、一族のうちの高経および山名時氏らとともに、兵を起して、京都を侵した。尊氏は、車駕《しゃが》を奉じて、叡山《えいざん》に趨《はし》り、陣を東山に進め、高経を攻めた。  高経は、能《よ》く拒《ふせ》ぎ、かえって、しばしば夜襲を敢行して、尊氏の生命をおびやかした。  尊氏は、急使を遣して、那須五郎をして、高経を討たせようとした。  父は子と闘い兄は弟と鬩《せめ》ぐ、紛々《ふんぷん》たる時世であった。  那須五郎は、熟々《つくづく》世の有様を覧《み》て、 「斯かる世に存《ながら》えなば、徒《いたず》らに名を汚がし、家をはずかしめんばかりを。若《し》かず、一死|屍《かばね》を馬革に裹《つつ》まんには!」  慨然《がいぜん》として、決意した。  そして、馬を馳せて、故郷の館に、ひとり住む母に、いとま乞いに行った。  母は、わが子の様子を視《み》て、直ちに、その決意を読んだ。  史書によれば、母は、わが子に、次のように述べた、という。 「古より武士の家に生れ候ものは、皆名を惜しみて、命を愛《おし》まず、義を守りて、私を思はざるを常と致し候ぞかし。人として誰れか父母妻子に名残を惜しまざるものの候はん。皆家門の恥辱《ちじょく》、父祖の名折れを思へばこそ、死を鴻毛《こうもう》よりも軽んじ候なれ。われ婦女子なりと雖も、聊《いささ》か義を知り、道を弁《わきま》へ候ひぬ。汝死すればとて、いかでか女々しく嘆き悲しみ候はんや」  そして、薄紅の母衣《ほろ》を持って来て、これは、先祖与一宗高が、波間に馬を乗り入れて、平家の女官がかかげた扇を射中てた時の品であるゆえ、これを着けて、一|期《ご》の誉をあげたまえ、と手渡した、という。  事実は、そうではなかった。  母は、しばらく、五郎を瞶《みつ》めていたが、 「そなたが討死いたせば、これで、那須家も絶えまする。それが、無念でなりませぬ」  と、云った。 「いずれ、逞しき若者を、家継ぎにお貰い下さいますよう——」  五郎がこたえると、母は、かぶりをふって、 「那須家を継ぐ者は、那須家の血を享《う》けた者でなければなりますまい」  五郎は、当惑した。五郎の弟は、すでに、討死して果てていた。  母は、当惑した五郎を見据えつつ、云った。 「そなたの子を、この母に、生ませてたもれ」  五郎は、愕然となって、母を見かえした。母の表情は、冷やかに冴えていた。  それから十日後の深夜、五郎は、寝所に、妻なる母をのこして、庭に出ると、池の氷を割って、とび込み、高らかに経文《きょうもん》を誦《ず》した。褥《しとね》の中に、一糸まとわぬ裸身を仰臥《ぎょうが》させていた母は、その経声をきき乍ら、懐胎したことを、信じて疑わなかった。  具足をつけた五郎は、従士を起さず、ただ一騎、寒月晧晧《かんげつこうこう》たる深夜の街道を、疾風のごとく、京へ向って駆け去った。  やがて、尊氏の使者が、五郎の壮烈な討死の様を告げて来て、これを受ける母の泰然たる態度に、感じ入った。  十月《とつき》後に、那須家の血を享けた子が、呱呱《ここ》の声をあげた。  五郎の母は、しかし、生れたのが女子と知るや、産褥から身を起して、その息の根を止めようとした。仰天した下婢《かひ》が、これをさえぎって、人を呼んだ。  隣りは、古い禅寺であった。たまたま、滞在していた年老いた雲水が、下婢の悲鳴に呼ばれて、入って来て、五郎の母の無念の言葉を黙ってきき了ると、 「愚禿《ぐとく》が、この|やや《ヽヽ》を頂戴して参ろう」  と、抱き上げて、すたすたと、立去った。  その女子が、百々地三太夫の曾祖母にあたる。  百々地三太夫が、何処の土地で、どのような生い育《た》ちかたをしたか、不明である。  織田信長の前に現れた時には、すでに、全身に、無数の刀創を帯びた、妖気をただよわせている忍者であった。  信長は、一瞥して、この忍者が、気に入った。 「業《わざ》のほどを、この場で、見せろ」  と所望すると、三太夫は、眉宇も動かさずに、 「もはや、お見せつかまつりました」  と、こたえた。 「見せたと?」  信長は、険《けわ》しい形相になった。  三太夫が、伺候《しこう》して、座についてから、まだ、ものの三十秒も経ってはいなかった。 「何を見せたと申す」 「おん差料《さしりょう》を——」 「差料がどうした?」  信長は、小姓の手から、差料を把《と》って、抜きはなった。べつだん、木にも竹にも変じてはいなかった。 「これがどうしたと申す?」 「拝見つかまつります」  信長は、無造作に、白刃を三太夫の膝の前に抛《ほう》った。  瞬間、三太夫は、それを掴んで立つと、するすると迫り寄り、切っ先を、信長の鼻さきへ突きつけた。 「お生命《いのち》頂戴つかまつる!」  はったと睨み据えて来た眼光の凄じさに、流石の信長も、総身が冷たくなった。  近習たちがわれにかえって、一斉に立つと、三太夫は、白刃を信長の前に置き、しずかに、おのが座にもどった。 「業を所望されて、すでにお見せしてある、といつわるのも、忍びの業のひとつにございます。忍びは、ただ、隠身《おんしん》(五遁《ごとん》)、飛躍、気合、攀登《はんと》、速歩《そくほ》、潜伏《せんぷく》、不眠《ふみん》、断食などばかりを、修業するものにあらず、虚実転換、臨機応変の心意——すなわち、人を謀《はか》る駆引こそ、肝要《かんよう》と心得ます。お上におかせられては、児童のごとくやすやすと、それがしの詐術《さじゅつ》におかかりあそばしたること、まことに、迂闊《うかつ》と申上げるよりほかはございませぬ。……なお、忍びの業は、武道にてはこれなく、公開をはばかるものにて、申さば、一見なんの奇異もなき振舞いをこそ、極意と致しまする」  三太夫は近習の一人に、広間と廊下の間の敷居の上を、五歩あるくように、たのんだ。  近習が、そうすると、三太夫は、 「極意とは、これに、ございます」  と、云った。 「なんの真似ぞ?」  信長は、判らぬままに、不快げに問うた。 「されば、もし、この敷居が、数十丈の絶壁と絶壁の間に架《か》かっているとすれば、近習衆は、ただいまのごとく、平然として、渡ることができるかどうか——その儀にございます。その敷居の上を迅駆《はやが》けることは、なんの造作もない。しかるに、数十丈の絶壁に、深潭奔流《しんたんほんりゅう》の上へ横たえられているとなれば、普通の御仁は、目眩《めくる》めき、股|慄《しび》れて、一歩も進む能わず。忍者は、これを、ただいま近習衆があゆまれたと聊《いささ》かも変らぬ平気で渡る。このちがいにて、まことに、極意とは他意もない振舞いにございます。さらに申さば、お上を、蓋世《がいせい》の英傑織田信長公と思うからこそ、心気も竦《すく》みまするが、ただの残忍粗暴《ざんにんそぼう》の気随者と看《み》れば、みじんもおそるるところはございますまい」 「ふむ!」  信長は、大きく頷いた。  それから、近習たちを退座させておいて、信長は、 「武田信玄公ならびに、上杉謙信を、屠《ほふ》ってみせろ!」  と、命じた。  三  武田信玄は、天正元年四月十一日、信州下伊那|波合《なみあい》の駒馬で逝っている。死因は、喀血であった、と伝えられたが、実は、百々地三太夫に、毒殺されたのである。 「大底他肌骨好《たいていたきこつこう》に還《かえ》る。紅粉《こうふん》を塗らずして自《おのずか》ら風流」という末期の偈《げ》をしたためたというが、山県昌景が、通夜の席で作ったのである。  もし信玄が、百々地三太夫に毒殺されず、さらに二十年も生きのびていれば、はたして天下の形勢はどうなっていたか、予測がつかぬ。すくなくとも、信長の天下にはならなかった筈である。  信長が、その残忍性においても、戦国武将中屈指であり、ひとたび憎めば、最もむごたらしい刑罰を加えたことは、あまりにも有名である。しかし、武田信玄は、さらに、信長以上の残忍性をそなえていた。おのが野望達成のためには、父親を追放し、わが子を殺し、義父を屠り、聟を攻撃し、甥から領土を奪いとっている。百々地三太夫に遭わなければ、その残忍な野望は、あるいは、京都にのぼって、足利幕府を倒すばかりか、おのが身を天皇の座に即《つ》けるところまで迫ったかも知れない。  上杉謙信は、信玄が毒殺されて五年後、天正六年五月九日正午、越後春日山城で、卒然として逝っている。厠《かわや》に行き、脳卒中で昏倒し、再び蘇《よみがえ》らなかった、と史書に記されているが、実はいざ排便しようとして跨《またが》って、蹲《しゃが》んだところを、百々地三太夫に、下から、忍び槍で、刺されたのである。  謙信は冤死《えんし》させた柿崎和泉守の亡魂に悩まされて、生命を縮めたらしい、と風説が立ったのも、この非業の最期の故であった。  もし、謙信が、十年を生きのびていれば、信長は、疑いもなく滅ぼされていたに相違ない。  前年——天正五年には、謙信は、越中、加賀、能登を平定して、いよいよ上洛のほぞをかためて、信長に一書を送り、 「来春三月十五日を期し、必ず越後を出て、上洛仕る可く候間、貴下も安土を出られるべし。両家興亡の合戦致すべし」  と、満々たる自信をもって、脅している。  これに対して信長は、 「上杉殿の御弓箭《ごきゅうせん》は、摩利支天《まりしてん》の所変の業にて、日本一州に長《たけ》て、双《なら》ぶべき者、覚え申さず候、来春、上杉殿御上洛に付いては、路次迄出迎え、扇一本腰に差し、一騎乗込み、信長にて候と、降参仕るべし」  と、卑屈きわまる返答をしている。  謙信は、愈々、北条氏政を撃って、その勢いをそのままに、京洛へ押しのぼろうと、出師《すいし》の準備を完了した——その矢先に、百々地三太夫の手で、厠中に屠られたのであった。謙信は、いまだ四十九歳であった。  百々地三太夫に遭わなければ、信長を撃って、天下を掌中におさめたと、容易に想像できる。戦国武将中、最高の大器だったのである。  信長は、深夜、音も気配もなく、寝所に忍び入って来た三太夫から、睡りをさまさせられて、謙信暗殺の報告を、受けた。 「やったか!」  信長は、掛具をはねのけて、とび起きると、 「もはや、天下は、わがものぞ!」  と、叫んだ。  三太夫は、闇の中に、ひそと、うずくまって、歓喜する信長を、じっと、見戍《みまも》っていたが、 「では、これにて、おいとまつかまつります」  と、云った。  武田信玄を殺すには、半年あまりで足りたが、上杉謙信を殺すには、五年の長い歳月をついやしていた。ともあれ、約束は、果したのである。任務が終れば、永久に、去るまでである。  忍者は、いずこの武将の家来にもならぬ。ひとつの任務を遂行するために、やとわれるだけである。それが済めば、去って、明日は、敵側にやとわれて、こんどは昨日までの傭い主の生命を狙うことも、あり得る。主従の絆《きずな》にしばられず、信義とか人情とかに煩《わずら》わされず、ただ、おのが秀れた業を沽《う》って、信じ難いほどの、奇蹟に近い仕事をやりとげることに無上の快感をあじわうのが忍者である。 「三太夫、わしの股肱《ここう》にならぬか? 天下を手中にすれば、十万石を約束してやってもよいぞ」  信長は、云った。 「ご辞退申上げます」  三太夫の返事は、冷やかであった。 「十万石でも、不服か?」  信長は、この稀代《きたい》の忍者には、十万石はおろか、三十万石もくれてもよい、と思った。信長は、一度罪を犯した者に対しては、おそるべき執念ぶかさで、五年十年を経っても、決して忘れず、大者小者を問わず、いかに小怨細恨《しょうえんさいこん》であろうとも、いずれは必ず報復してみせたが、同時に、有能者に対しては、心から惚れて、これを思いきって登用する決断力を持っていた。 「十万石は、夢としか思われぬ過賞にございます」 「では、なぜ、辞退するぞ!」 「申上げれば、ご気色《きしょく》を損じられましょう」 「かまわぬ。申してみい」 「では、申上げます」  三太夫は一呼吸を置いてから、 「それがし、いささか、観相をつかまつります。お上の御面ていを拝しまするに、大凶近きにある徴《きざし》がございます」 「大凶? わしが、何者かに、弑《ころ》されると申すか?」 「あるいは……」 「三太夫、業力が熾《さか》んならば、神力も及ばず、ということを知らぬか! 積水を千仭《せんじん》の渓《たに》に決するこの信長の勢いを、何者が、はばむと申すか!」 「中原の鹿を追うておいでになるそのおん勢いが、突如として消える相が、そのお顔に現れて居ります」 「黙れっ!」  信長は、かっとなって、枕もとの佩刀《はいとう》を掴んだ。 「雑言《ぞうごん》、許さぬぞ!」  すると、まるで、二町も三町も遠方からとしか思われぬ三太夫の声が、きこえた。 「下《しも》ざまで申す諺《ことわざ》に、一寸先は闇、というのがござる。織田信長殿の命運は、ここ数年をのこすのみ——」  そう云いのこした三太夫は、二度とふたたび、信長の面前には現れなかった。  四  天正十年春——  百々地三太夫は、それまで杳《よう》として行方を絶っていて、忽然《こつぜん》として、備中高松城を水攻めにしている羽柴筑前守秀吉を、その陣営に訪れた。  勿論、篝火《かがりび》も消えた深更をえらんで、秀吉を、睡りからさまさせたのである。  秀吉は、すでに、武田信玄、上杉謙信を暗殺したのが、この妖気を湛えた忍者であることを知っていた。 「何処にひそんでいたぞ、三太夫?」  秀吉は、深い興味を抱いて、三太夫を視《み》た。  三太夫は、それに答えず、 「天運が、そろそろ、お手前様に向いて来た、と思うて参上つかまつってござる」  と、云った。  曾て、三太夫は、秀吉の奇妙な貌《かお》をじっと覧《み》て、 「天下人の相をしてござる」  と、独語するように、云ったことがある。秀吉は、その讃詞を、耳にとどめていた。 「わしに、天運が向いて来た? 一向に、向いて来たとは思われんの」  たしかに、織田家の諸将のうち、羽柴秀吉の位置は、大層重きをなしていた。江北長浜に根拠地を有《も》って、中国征討の総督として、前年までに、播磨《はりま》、但馬《たじま》、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》を攻略し、今年に入っては、山陽道に攻め入って、総帥小早川隆景の率いる備中諸城主を矢継ぎ早やに討ってとり、清水長左衛門宗治を、高松城内に孤立させていた。  織田家出頭第一人者の柴田勝家は、上杉景勝に対する北国押えとして、越前北ノ荘に在るが、到底いまや秀吉の威勢におよぶべくもない。  しかし、羽柴秀吉たる者、あくまで、織田信長という天下人の下で働く調法な家来でしかないのである。  百々地三太夫は、秀吉こそ天下人たる好運を与えられていると断定しているが、信長が存在する限り、その可能性はない。  秀吉の胸中には、下剋上《げこくじょう》の心はみじんもないのである。謀叛を起して、天下を取っても、決して、それが永久のものでないことを秀吉は知っていたからである。天下を取るには、それだけの人望を、翕然《きゅうぜん》としてあつめなければならぬ。  いま、かりに、叛心して、信長を討ちとったとせんか。柴田勝家、明智光秀、徳川家康、前田利家、佐々成政、佐久間盛政らは、一斉に、この秀吉に向って、矛《ほこ》を殺到せしめるに相違ない。  この大軍と戦って、勝つなどとは、万に一の可能性もあるまい。  秀吉には、天運が向いて来た、などと云われても、全く考えられなかった。  三太夫は、秀吉の一種とぼけた味のある表情を、冷やかな微笑で見やって、 「お手前様は、あの泥水の中に浮いている高松城を眺められて、心中、何を計算されて居られますぞ?」 「云うてみい」 「信長公が、いま、北国へ向って出馬すれば、上杉景勝は一挙に潰滅するに相違ない。上杉を仆《たお》せば、今度は、全力を挙げて、毛利を制圧することになる。信長公が柴田勝家をともなって、中国に駒を進めて来れば、この筑前守秀吉の立場は、どうなる? 毛利征伐が、信長公の手によってなされるならば、勝家その他の諸将が、功績を分けるであろう。この秀吉の功績は、前年鳥羽城を陥れただけにとどまろう。なんとまあ、つまらないことか」 「………」 「信長公は、北国へ出馬して、景勝を伐《う》っているあいだ、この秀吉が最もきらいな明智光秀を中国へ寄越して、毛利と対峙《たいじ》させるつもりらしい。この秀吉は、たしかに、信長公の寵を受けている。しかし、信長公は、決して、この秀吉という人物を愛し、信頼しては居らぬのだ」 「………」 「信長公は、生れ乍らの大名の子じゃ。苦労はしていても、貴族趣味をまぬがれず、下賤の者をあなどり、さげすむ傾向がある。この秀吉が、いかに有能であろうとも、土民の出である限り、徳川家康や明智光秀などと、同列に置いて覧《み》ようとはせぬのだ。……左様、信長公は、いかにも、明智光秀を悪《にく》んでいるかに、みえる。したが、肚の中では、決して嫌悪しては居らぬ。光秀こそは、この戦国の時世にあって、最高の智識人である。信長公も、これを軽蔑することは叶わぬ。ただ信長公は、徳川家康と光秀が出会って、両者が智識人同士として、ぴったりウマが合うのを視てとって、警戒したのだ。信長公が、安土に家康を招き、いったんは、その馳走役を光秀に命じ乍ら、突如、当日にいたって、それを免じたのは、その警戒ゆえであった。流石の光秀も、腹を据えかねて、せっかく用意した料理の品々を、器具もろとも、安土の城濠へ投げ込んだそうだが、さればと申して、謀叛心を起しはすまい。…‥ともあれ、卒伍の中から累進《るいしん》したこの秀吉と、当初より一個の人材として、採用された光秀とを、生れ乍らの貴族である信長公が、孰《いず》れを信頼するか、おのずから明白だ。お手前様は、こう考えておいでではありませぬか?」  見事に、三太夫は、秀吉の肚《はら》の裡《うち》を、云い当ててみせた。  ——おそるべき奴!  秀吉は、三太夫の刃物のように鋭利な眼眸《まなざし》を受けとめ乍ら、ひそかに戦慄《せんりつ》した。  すべての人は、この秀吉を、つねに一切を信長に捧げて、水火を辞せずに働いている、と信じている。また、人々はもとより、信長自身にも、そう信じさせるべく、いかに、苦心して来たか。なみなみの努力ではないのである。  信長という人物は、主人としては、まことに仕え難い代物であった。  次のような逸話がある。  ある時、信長は、「誰か参れ」と、呼んだ。近習の小姓が、すぐに参って、仰せを待った。  しかし、信長は、べつに、何も命じないで、しばらくすてておいて、「もうよい、下れ」と云った。  しばらくして、また「誰かある」と呼んだ。別の小姓が、罷《まか》り出て、言葉を待ったが、前と同様、信長は、何も申しつけようとはせず、時間を置いて、下れと首をふった。  さらにまた、ややあって、信長は、呼んだ。三番目の小姓が、入って行って、待ちうけたが、依然として、信長は、用事をいいつけようとはせず、すてておいてから、退るように手を振った。  その小姓は、一礼しがけに、座のかたわらに落ちていた塵を、つまみあげて、袂に入れた。信長は、うむと頷いて、 「その方こそ、見どころがあるぞ。総じて、武士は、心と気を働かせるのを以《もっ》て良しとする。武辺という事、かかるも引くも、時の汐合、合戦のならい也。その方の退り様、あっぱれである」  と、ほめた、という。  信長は、人を使うコツを充分心得た武将であった。家臣たるものは、一瞬の油断も出来ないのである。 「三太夫、わしに、どうせい、と申すのだな?」  秀吉は、問うた。 「ひとつの餌を、竜虎に争わせておいて、隙をうかがって、駄犬が、その餌をひろうのが利巧なやりかた、ということわざが、支那にござる」 「ふむ——」 「お手前様が、天下人におなり召さるには、頭がつかえていて相成り申さぬ。まず、信長公を、弑《ころ》す!」 「………」 「但し、お手前様が弑すのは、甚だ痴呆《こけ》と申すもの、他人に弑させるのでござる。恰度《ちょうど》、下剋上をやるに、最も手頃な御仁がござる」 「日向守(光秀)か」 「左様左様、この智識人に、信長公を討たせるのでござる」 「どうやって、討たせる?」 「上杉景勝を利用するのでござる。それがしに、おまかせあれば、明智光秀をして、信長公を討つ、絶体絶命の決意をさせて、ごらんに入れましょうぞ」  三太夫は、にたりとした。  秀吉は、沈黙した。  三太夫は、つづけて、云った。 「お手前様は、光秀が、信長公を討つのを、待っておいでなさればよい、その日時は、それがしが、急報つかまつる。お手前様は、即刻、この高松城をすてて、馬を返して、光秀を討ってとられる。よろしゅうござるか。光秀の首を、他人の手で刎《は》ねられては、相成り申さぬ。お手前様の働きでなければなりませぬ。その時こそが、お手前様が、天下人になるべき第一歩でござる」 「三太夫!」  秀吉は、首をのり出して、睨んだ。 「わしに、なんのために、天下を取らしたがる?」  三太夫は、冷然と、見かえして、 「それがしは、五年前に、信長公に向って、数年のうちに命運が尽き申す、と宣告つかまつった。されば、それがしの観相は、正しく、ぴたりと、当らねばなり申さぬ。もうこれ以上、待っては居られぬのでござる」 「ただ、それだけの理由で、おぬしは、わが主君を弑すのか?」 「これ以上の立派な理由が、ほかに、あり申そうか」  三太夫は、うそぶいた。  六月|朔日《ついたち》夜、明智日向守光秀は、勢衆五万を率《ひき》いて、老之山《おいのやま》へさしかかった。  右へ行く道は、山崎天神馬場、摂津国街道であった。  左へ下れば、京であった。  中国へおもむくのであれば、当然、右へ行かなければならなかった。  光秀は、左への道を命じた。  先払いの士が、その不審を問うと、光秀は、沈んだ声音で、 「敵は、本能寺に在る」  と、こたえた。  光秀が、信長を討つほぞをかためたのは、一通の密書のためであった。  明智左馬助の許に、血まみれになった一名の高野|聖《ひじり》が現れて、経文一巻をさし出し、これは、上杉景勝様より明智光秀様への親書でございます、と言上した。  上杉謙信の在世中から、織田・上杉間の政治交渉には、高野聖が使われていたのである。その高野聖は、もう一名の僧と、それぞれ、同じ経文を一巻ずつたずさえて、上杉家を出て、明智光秀の許をめざして来たが、途中、柴田勝家の手勢に発見されて、もう一人の僧は斬られて、経文を奪われ、自分だけがどうにか生命からがら、にげのびて、ようやく、ここまで、辿り着いたのだ、と告げた。  その経文は、ただちに、左馬助から、亀山城の光秀へ届けられた。  光秀は、べつに、上杉景勝から、親書をもらうおぼえはなかった。  経文は、梵字《ぼんじ》で記されてあった。  真言宗の僧を招いて、解読させたところ、意外な文面であった。  あたかも、かねてから、景勝は、光秀と気脈を通じ、信長を討ちとる約束ができていた、という前提のもとに、いよいよ時節到来、何卒|蹶起《けっき》されたい、とはげましていたのである。  こんな親書を、上杉景勝が、したためる筈もなかった。贋密書《にせみっしょ》であった。  問題は、同じ経文一巻が、柴田勝家の手に入った、ということであった。  これを解読した勝家は、即刻、経文を、信長の許へ送るに相違ない。  それを読んだ信長が、はたして、これが、上杉方の根も葉もない謀略である、と看破してくれるか、どうか?  沈思の挙句、光秀は、これまでのおのれに対する信長の態度を顧《かえりみ》て、ついに、反逆を決意したのであった。  黎明《れいめい》——光秀五万の勢衆は、本能寺を包囲し、凄じい鯨波《げいは》をあげて、討ち入った。  信長、死に際の働きぶりは、「信長公記《しんちょうこうき》」に、鮮やかに描かれている。 [#ここから2字下げ] 信長公、はじめは、お弓を取りあはせ、二つ三つ遊ばし候へば、いづれも時刻到来候て、おん弓の弦《つる》切れ、その後は御槍にて、お戦ひなされ、お肘《ひじ》に槍|疵《きず》を蒙《こうむ》りて引き退《の》かれ、これまでおそばに女共つき添ふて居り申し候を、女は苦しからず、急ぎ罷《まか》り出よ、と仰せつけられ、追ひ出され、すでに御殿に火をかけ、焼き来り候はば、お姿をお見せあるまじくとおぼしめされ候|歟《か》、殿中奥ふかく、入りたまひ、内よりお納戸の口を引き立てて、情《つれ》なく、お腹をめされ候。 [#ここで字下げ終わり]  その時——寝衣の前をくつろげ、抜きはなった脇差を逆手に掴んで、信長が、瞑目《めいもく》したおりであった。  不意に、背後にあたって、 「百々地三太夫、介錯《かいしゃく》つかまつろうず!」  と、声がかかった。  信長は、かっと、双眼を瞠《みひら》いて、振りかえった。 「おのれ、推参!」  はったと睨みつけたが、三太夫は、眉宇も動かさず、 「それがしの観相、まさしく、当り申しましたぞ」  と、云いはなった。  すると、信長は、はっと直感して、 「三太夫! おのれだな、日向守に、この信長を討たせたのは?」  と、叫んだ。 「まさしく——」  三太夫は、頷いてみせた。 「忍者め! おのれ一個の力で、天下の形勢を、つぎつぎと変え居ったか!」  信長は、自嘲して、 「よし、介錯せい!」  と、ゆるした。  三太夫は、信長の首を、一閃のもとに、刎《は》ねると、しかし、憮然《ぶぜん》として、呟いたことだった。 「百年の戦火も、このあたりでおさまろう。あとは、猿面冠者が、天下を取って、治めるばかりだ」  その秀吉も、疾《はや》くに逝き、石田三成は滅んで、天下の権は、徳川家康の手に帰している。  その移り変りを、百々地三太夫は、伊豆の一隅から、黙視している……。  五  猿飛佐助が、主君幸村に、百々地三太夫を味方にひき入れるか、然らずんば、その生命を断ってみせる、と誓《ちか》って、高野山麓を立ち出てから、四日目には、もう、その矮小《わいしょう》の姿は、伊豆国のかの狩野《かの》川のほとりに、見出された。  すでに、ここには、春は過ぎて、蒸しばむばかりの眩《まぶ》しい陽光の下に、山野は、ふかぶかとした、厚い緑の装いを、みせていた。  狩野川をこえて、さらに原野の中の一筋道を、一刻あまりひろって、とある丘陵に登った佐助は、なだらかな斜面の下に、赤や黄や紫や、目を奪う強い原色でうずまった花畑を発見して、にやっとした。  毒花を栽培しているのは、尋常人ではない。  佐助は、目をあげて、かなりひろい桐畑をへだててちらばっている十数戸の衆落を、そここそ、百々地三太夫とその配下らのすみかと、看てとった。  花畑の傍に降りた佐助は、こころみに、真紅の花びらを採《と》って、かいでみた。胸がむかつく匂いであった。  十歩も、あゆまぬうちに、こめかみのあたりが、微かに鳴って、不意に、睡魔が襲って来た。 「不覚!」  呟いた佐助は、地を蹴って、二間を跳躍した。  そこは、丈のひくい青桐の若木の中ほどであったが、立った刹那、佐助は、ぶるっと、ひとつ、身顫《みぶる》いした。  何故か知らぬが、殺気のまっただ中に置かれたような戦慄が、身うちを走ったのである。  ぐるっと見わたしたが、なんの変りばえもしない桐畑であった。  槍の柄ほどの細さの桐の若木が、一定の間隔で、整然とならんでいるのが、錯覚を起させたのであろうか。  佐助は、かぶりをふって、桐畑を抜けた。そこに、一間幅の小川が、澄んだ水を、音もなく、流していた。  顔を洗おうとして、膝を折ったとたん、佐助は、さしのべた両手を、流れの上で、停めた。  水底には、幾個かの髑髏《どくろ》が、ひっそりと沈んでいたのである。  ——南無!  佐助は、立ち上って、前方の人家のたたずまいを、見やった。  どこの土地にでも建っている、きわめてありふれた、貧しげな地下人《じげびと》のすまいであった。どの家も造りが同じであり、庭もまたそっくりに似かようて居り、頭領の住んでいそうな特別の構えは、見当らぬ。  疑うとすれば、人の気配のないことである。尤も、みんな遠くの田畑をたがやしに出はらってしまっているのであれば、この静けさも、なんの不思議はない。  にも拘らず、佐助は、小川を跳び越えることを、しばし、逡巡《ためら》った。  佐助は、要心ぶかい。  小川に添うて、ゆっくりと歩き出した。  陽はすでに、西に傾いて、佐助の長い影法師は、流れをこえて、むこう岸まで、延びていた。  茜《あかね》色の雲の下を、錆声《さびごえ》で啼《な》き乍ら、舞っている夕鴉が、この静かな里景色で、佐助を迎えた唯一の生きものであった。  佐助は、一本の丸木が架《か》けられている地点で、足を停めた。  むこう岸ちかくには、栃《とち》の巨樹《きょじゅ》が、鬱然《うつぜん》として、天に沖《ちゅう》していた。  佐助は、丸木に、足をかけた。  とたんに、 「何用かな?」  栃の巨樹の中から、声がかかった。  佐助は、仰ぎ見たが、嫩葉《ふたば》の中に、姿はなかった。 「百々地三太夫殿に、お目にかかり度く存ずる」  佐助は、胸を張って、云った。 「いずれの御仁じゃな?」 「真田左衛門佐幸村が家来猿飛佐助と申す」  佐助が名のってから、対手は、かなり長い沈黙を、置いた。  佐助は、すでに、対手が、どこにかくれているか、さとっていた。  栃の巨樹は、むかし落雷を蒙ったとみえて、その頂きが折れて、鋭くとがって、天を刺していた。そこが、虚《うろ》になっているに相違なかった。  佐助は、待ちきれずに、 「渡り申す」  と、ことわって、丸木の上を、のこのこと渡って行った。  佐助が、その前に立って仰ぐのと、頂きに、白髪自髯の首が現れるのが、同時であった。  老いたる忍者は、片手に掴んだ一本の杖を、枝から枝へあて乍ら、痩躯《そうく》を幹に対して三十度ばかりの角度に傾けて、ゆっくりと降りて来た。  その姿勢で、非常な迅《はや》さで、駆け降りて来ることは、忍者ならば、誰でもできる。しかし、平地上を歩くように、ゆっくりと降りて来る業は、いかなる修業によれば、可能なのか。宛然《さながら》、痩躯《そうく》は、気泡のように軽いものに見えた。  これは百々地三太夫にまぎれもない、と佐助は、合点した。  地べたに、立った老いたる忍者は、佐助の面貌へ、落ち窪んだ眼窩《がんか》の奥から、鋭く光る視線を送った。 「戸沢白雲斎《とざわはくうんさい》の一人弟子だの」  そう云いあてた。  佐助は、頷《うなず》いた。 「嬰児《やや》であったおぬしを肩へのせた白雲斎に、わしは、江州《ごうしゅう》で出会うている。瘤《こぶ》をせおうたおぬしを眺めて、わしが、育つまい、と云うと、白雲斎め、ひどう慍《おこ》り居った。……よう育った」 「………」 「ちと、気弱そうじゃが、万人に好意を持たれる人柄に生れついたのは、重畳《ちょうじょう》じゃ」  三太夫は、歩き出した。  二歩おくれて、佐助は、跟《つ》いて行った。  くさむらから、幾匹かの蝮《まむし》が、とびかかって来たので、佐助は、そのたびに、跳び躱《かわ》さなければならなかった。  蝮は、勿論、三太夫には、とびかかりはしなかった。  いや、それどころか、そのうちの一匹は、媚びるように、杖にまつわりついて、するするとのぼって来ると、その皺だらけの手の甲を、べろべろとなめはじめた。  三太夫は、うるさげに、ふりはなした。  佐助が、みちびかれたのは、端の一軒であった。  何ひとつ調度のない、二間の屋内には、もう夕闇がただようていた。  対坐すると、三太夫は、 「おぬしをもてなすものは、ここには何もない」  と、ことわった。  佐助は、あらためて、見まわした。この静寂は、冷たすぎる。  三太夫は、云った。 「この里には、もはや人は住んで居らぬ」 「と、申すと——」 「わし一人をのこして、出て行き居った。……白雲斎が、おぬしをひろって育てたように、わしも、十五人の嬰児を、ひろって来て、育ててやったが、のこらず、そむいて、出て行き居った」 「………」  三太夫は、眼眸《まなざし》を、昏《く》れなずむ庭へ送って、 「真田左衛門佐は、英明の武将ときこえて居るが、おぬしを、ここへ寄越したのは、おろかにすぎる」  すでに、三太夫は、佐助のやって来た目的を、読みとっているようであった。 「百々地三太夫殿!」  佐助は、屹《きっ》となって、見すえた。 「豊臣家の味方について下さるか、さもなければ、御|首級《しるし》を頂戴いたす!」  その宣告に対して、三太夫は、なんの反応もしめさず、ややあって、 「左衛門佐は、愈々《いよいよ》、迂愚《うぐ》と、きまった」  と、呟いた。 「何を申される! わがあるじは、古今無双の智慧者でござるぞ!」 「倒れるものときまった家を、躍起《やっき》になって支えるのが、古今無双の智慧者の為すべきことか」 「豊臣家が、滅びると、どうしてお判りじゃ?」  佐助は、憤然となった。 「徳川家康という人物の真の偉さを、左衛門佐は、いまだ、判って居らぬ」 「徳川家康が、豊臣家を滅すというなら、家康の首を取ってやればよいのだ!」  佐助は、云いはなった。 「佐助!」  三太夫は、はじめて、視線を、佐助の眸子《ひとみ》へ合せた。 「わしが育てた十五人の子らを、わしからそむかせたのは、誰だと思う? 家康じゃ。家康は、わしを、やとおうとして、失敗した。失敗するや、ただちに、考えを変えて、十五人の子らを、わしからそむかせることを企てて、それを見事にやってのけた。のみならず……」  そこまで云って、三太夫は、ふたたび、闇の降りた外界へ、目を放って、 「おろか者どもは、家康の指嗾《しそう》によって、育ての親のわしの生命を奪おうとして、迫って来て居る」  佐助は、はっとなって、三太夫が眺める方角を、すかし視た。なんの気配も、察知できなかった。 「佐助、おぬしが、今日、やって来たのは、偶然ではない。わしは、おのが貌に、いつ死相が現れるか、待って居ったが、今朝、手水《ちょうず》を使おうとして、水鏡に映った貌に、はっきりと死相が出て居るのを、見とどけたのじゃ。はたして、おぬしが、生命を奪いに来居った。……おろか者どもも、今宵《こよい》うちに、参るであろう」  これをきくや、佐助は、思わず、 「ご老人! わしが、味方して進ぜる!」  と、叫んだ。 「むだなことは、してもらうまい」  三太夫は、やおら、立ち上った。  この時、佐助は、彼方にあたって——桐畑のむこうあたりに、あきらかに、多くの黒影が湧く気配を、さとった。  三太夫は、しずかな足どりで、門口まで出ると、跟《つ》いて来た佐助をふりかえって、 「ここから出てはなるまいぞ。援《たす》けは、かまえて、無用じゃ。そのかわり——」  ついていた杖を、さし出して、 「あの檜の樹の上に、星がひとつ生れたならば、この杖を、その星めがけて、抛《ほう》ってもらおう」  と、云いのこした。  佐助は、闇に眸子をこらして、老いたる忍者の後姿を見送ったが、丸木橋を渡って行くのを、見とどけるまでが、使い得る視力の限度であった。  星もない闇は、墨を流したような、しんの暗さだったのである。  佐助は、全神経を集めて、闘いが、桐畑の中で、はじまったのを、感じた。  一声すらも、発しられなかった。ただ、桐の青葉が、烈しく鳴るのが、きこえたばかりであった。  と——  佐助は檜の巨樹の、恰度《ちょうど》まうえに、微かに、ひとつの光が生れるのを、視てとった。 「八幡!」  わたされていた杖を、その星めがけて、ひょーっと、投じた。  杖を投じておいて、佐助は、その一軒にもどり、夜明けまで、睡った。  起き出て、濃い霧の中を歩いた佐助は、桐畑へ出て、思わず、息をのんだ。  そこに。ここに。  忍び装束《しょうぞく》の屍骸が、横たわっていた。  それらの、いずれの胸にも、ひき抜かれた青桐が、突き刺さっていた。こころみに、その一本を、抜きとってみると、そのさきには、長さ二寸の槍の穂先がつけられてあった。  ただの桐の若木ではなかったのである。  屍骸は、十五個あった。いや、もう一個——畑をはずれて、くさむらに、仆れていた。  三太夫の屍骸であった。  その胸には、佐助が星へ向って投じた杖が、ふかぶかと、突き立っていたのである。  杖には、主人の死を悲しむがごとく、一匹の蝮が、まきついていた。   豊臣小太郎  一  徳川秀忠が、父家康より、征夷大将軍《せいいたいしょうぐん》を譲られて、数万余の供ぞろいをもって、江戸を発し、上洛したのは、慶長十年三月のことであった。  上洛の作法は、そのむかし、右大将源頼朝が、畠山次郎重忠を先陣にして、鎌倉を立って、入洛《じゅらく》して来た時の例にならった。家康は、東鑑《あずまかがみ》を愛読していたので、その仰《ぎょうぎょう》々しい出立を模範としたものであったろう。  大阪城に在る豊臣秀頼に対する示威の意味も、勿論、あったに相違ない。  伏見城に入った秀忠は、八日間の休息を置いて、三月二十九日、快晴の朝をえらんで、四足門より参内した。  清涼殿《せいりょうでん》西間において、主上に拝謁《はいえつ》し、御太刀、御馬、銀子《ぎんす》二百枚、綿千|把《ば》を献上し、次いで、親王方へも、かずかずの進物をした。  米沢中納言景勝、京極宰相、伊達少将政宗、毛利右近少将、池田三左衛門少将ら、日本中の諸大名が供奉《ぐぶ》した。  斯《か》くて、めでたく、権大納言秀忠は、征夷大将軍を拝し、内大臣正二位に陞《のぼ》せ、淳和院《じゅんないん》別当に補《ほ》し、牛車《ぎっしゃ》兵仗を聴《ゆる》されて、御所を退出した。  行列は、しずしずと、禁闕《きんけつ》を出て、京極の西を経て、五条橋を過ぎ、伏見へ還って行こうとした。  この通路は、俗に御幸《みゆき》みち、と称ばれていた。伏見城に住んだ太閤秀吉が、朝参していた通路だったからである。世人は、太閤を尊んで、院官に准《じゅん》じて、御幸と呼んでいたのである。  行列が、恰度《ちょうど》、五条橋を渡ったおりであった。  東南の方広寺《ほうこうじ》の方角にあたって、突如、騒擾《そうじょう》の音が起った。  沿道はもとより、その周辺は、隙間なく、警衛をかためていた筈であった。 「素破《すわ》!」  とばかり、行列は、緊張した。  警衛陣を擾《みだ》したのは、不穏の徒が蜂起したと、考えてよかった。  しかし、騒音は、すぐおさまった。危急を告げに奔って来る士も、いなかった。  先導をしていた彦根城主井伊直勝は、念のため、ただ一騎で、馬腹を蹴って、そこへ疾駆《しっく》した。  方広寺は、太閤秀吉が、天正十四年に寧楽《なら》、鎌倉に大仏があって、京都に無いのは面白からず、と例によって大袈裟趣味から、木造乍ら、高さ十六丈の華厳《けごん》説法方広仏を造って、世人をおどろかせた寺であった。  しかし、慶長元年七月の大地震に、あとかたもなく、大仏は崩壊して、再建するひまもなく、秀吉は逝《い》っていた。いまは、周囲の石垣と山門がのこっているばかりであった。  その石垣は、仏法破滅の世には、巨《おお》きな石で作らなければ、盗み取られるだろうと、役夫を二十一箇国に課して、築きあげたものであり、その宏壮《こうそう》さは、京洛にあまたある寺院を圧していた。  曾《かつ》ては、貴賤の参詣群集が、いうばかりもない賑いを呈した寺であったが、今は、いたずらに、巨石の垣が陽に映えているばかりで、あたりは、ひっそりと、人影もなかった。  井伊直勝は、山門をむこうにのぞむ辻に、馬を躍らせて、 「おっ!」  と、唸《うな》るや、たづなを引いた。  路上には、数十人の士が、斃《たお》れていた。この区域をかためていた者たちである。 「何事ぞ!」  一瞬の騒擾がきこえたばかりであったにも拘《かかわ》らず、警衛の士は、悉《ことごと》く、斬られ伏しているのであった。  直勝は、この静寂を、この上もなく不気味なものにおぼえた。  と——。  山門から、一騎の武者が、蹄の音を高くたてて現れると、 「井伊直勝殿に申上げる。われらは、謀叛《むほん》の徒党にあらず。このたび、征夷大将軍に任じられた右大将秀忠殿に、いささかの賀意《がい》を述べんとする者に候」  と、云いはなった。 「何者|歟《か》?」  直勝の誰何《すいか》に応《こた》えて、山門から、整然たる隊伍をとった軍勢が、出現して来た。  直勝は、あっとなった。  ただの軍勢ではなかった。  黄|母衣《ほろ》十数騎、金旗数本、吹貫《ふきぬき》旗数十本、梨地柄金丸|貫鞘《ぬきざや》の薙刀《なぎなた》十数振、虎皮鞘の鑓《やり》十数本、抜身の太刀数十。いずれも、唐織の馬衣《ばい》をかぶせた駿馬《しゅんめ》にまたがっていた。  そして、これらの武者が、まもっている中央の大将は、まさしく、故太閤秀吉そのままのいでたちであった。  唐冠の甲《かぶと》、金札緋威《こざねひおどし》の鎧、慰斗《のし》付け太刀、金の靫《うつぼ》の上に征矢《そや》一筋を刺し、朱塗りの重籐《しげどう》の弓をにぎり、金の瓔珞《ようらく》の馬鎧《うまよろい》をかけた白馬にうちまたがっていた。  直勝は、曾て、太閤秀吉が、そのよそおいで、威儀堂々《いぎどうどう》と、洛中にうち立ったのを、見かけたおぼえがある。  そっくり、そのままの再現であった。  ちがっているのは、造り髭をかけた兜《かぶと》の下の貌《かお》が、秀吉のように皺《しわ》だらけではなく、若々しく、美しかったことである。  直勝は、何か叫ぼうとしたが、声が出なかった。  直勝に、いま、なし得ることは、馬首をかえして、一散に、行列へ、かけ戻ることだけであった。  すると、幻《まぼろし》にも似たその軍勢は、宛然《さながら》直勝を先導させるように、疾駆した。  二  猿飛佐助は、この日、主人に申しつけられて、新しい征夷大将軍の威風ぶりを見とどけに、京へやって来ていた。  沿道の群衆に交って、近づく行列へ首をのばしていた佐助は、方広寺の方角で騒擾の音が起るや、たちまち、そこから、忽然《こつぜん》と姿を消していた。  その軍勢が、行列の行手をさえぎって、華麗な行装《いでたち》を数列につらねた時には、佐助は、この大和大路に、いくたびかの戦火をまぬがれて、立ちのこっている巨松の一樹の高処《たかみ》に在った。  行列側は、鉄砲組、弓組、鑓《やり》組が、すばやく動いて、応戦の陣形をとったほかには、さしたる動揺を示さなかった。  軍勢といっても、二百にも足らぬ頭数だったからである。  伊達政宗が、秀忠の下知を受けて、先頭へ駒を進めると、大音声《だいおんじょう》に叱咤《しった》をくれた。  それに応《こた》えて、太閤そのままの姿の若い大将も、駒を寄せて来た。 「われら豊臣小太郎《とよとみこたろう》秀松、かしこまって申す!」  まず、そう名のった。その声音《こわね》は、はっと耳が澄むほど美しく、云うならば、ボーイ・ソプラノであった。  誰も、豊臣小太郎秀松という名をきいた者はなかった。 「豊臣小太郎秀松とは、何者ぞ! おのれ、野盗のたぐいが、血迷うて、天下人《てんかびと》の子を佯《いつわ》ろうとか!」  伊達政宗は、その大きな隻眼《せきがん》を、かっとひき剥《む》いて、睨《にら》みつけた。 「われらが、太閤秀吉の後胤たることは、神明に誓って、譎《いつわ》り申さぬ。……征夷大将軍職に就かれたる右大将殿に申上げる。徳川家においては、いずれ、遠からざる機会に、大阪城を攻めて、秀頼ならびに嫡母《ちゃくぼ》淀殿をして生害せしめる企てありと存ずる。されば、その節は、この豊臣小太郎秀松を、先陣に立たしめたまえ。必ず、一番乗りをつかまつらん!」 「きこえぬことを申すぞ! 故太閤のご落胤ならば、大阪城のおひろいの兄にあたるのではないか。唯一の昆弟を殺さんとする事由はなんぞ?」 「仇討に御座候!」 「仇討?……仇討とは?」 「徳川家のかかわり知らぬことなれば、敢えて聴かれな! 重ねて、申しあげる。新将軍家が日本全土の兵をもって、大阪城を囲む日のあることは、もはや、疑うべからざるところ。その秋《とき》こそ、豊臣小太郎秀松が積年の怨《うら》みを太刀先にこめて、秀頼母子の首を刎《は》ねるものに御座候」  云いおわるや、若武者は、さっと馬首をかえして、おのが部下の陣営に馳せ戻った。  華麗な軍勢は、主人をつつみこむと、直ちに、一糸みだれぬ隊列で、方広寺へ、潮のように引いていった。  これにむかって、徳川方が、一矢もあびせなかったのは、伊達政宗自身、そのまま、黙然《もくねん》として見送っていたからであった。  後刻、伏見城に入って、この異変をきいた家康が、政宗に、なぜ撃たなかったか、と問うた。  政宗は、隻眼を伏せて、しばらくこたえなかった。やがて、顔を擡《もた》げて、 「いかなる手段をもってわがものにいたしたか、小冠者がまとうていたは、まぎれもなく、故太閤がおん身につけられた具足《ぐそく》でござった。これに弓を引く存念はさらに起り申さず、むざと看遁《みのが》し申した」  と、こたえた、という。  猿飛佐助の方は、すぐさま、九度山麓へ、風の迅《はや》さで奔《はし》り還《かえ》って、主人に、このことを報告した。  左衛門佐幸村は、興味をそそられ乍《なが》らの無言の態度で、きき了ると、 「豊臣小太郎秀松——か。ふむ。落胤らしい名をつけた。年齢《とし》はどれくらいと看《み》た、佐助?」 「さよう、まだ十四五歳でありましたろうか」  佐助は、ぱちぱちと、せわしげにまばたきし乍ら、こたえた。 「佐助、お前ともあろう者が、軍勢が方広寺境内で消えうせるのを、ただ手を拱《つか》ねて眺めていた筈もあるまい」  幸村は、笑い乍ら、訊ねた。  佐助は、ちらと、上目づかいに、主人を見やって、 「不覚にございました」  と、頭を下げた。  実は、佐助は、何者とも知れぬ強敵と、常人の目には到底とまらぬ猛烈な闘いを演じて来たのであった。  その軍勢のあとを追ったのは、佐助だけではなかった。新将軍を陰から護衛していた伊賀・甲賀の忍び衆十数名も、当然の任務として、これを追跡した。  しかし、軍勢側に、この追跡をはばむ用意のない筈がなかった。迎撃したのもまた、忍者群であった。  方広寺山門の前にくりひろげられたのは、殆ど物音をたてずに、影と影とがぶっつかりあい、飛びちがって、みるみるうちに、呻きものこさずに、地上に横たえる屍骸《しがい》の数を増して行く、奇怪な悪夢のような闘いであった。  佐助一人は、その隙をうかがって、いまだに、高さ二十丈の堂と十六丈の大仏が崩壊した当時のままに存置されている方広寺山内へ、とび込んでいた。  その時、すでに、二百の軍勢は、人馬ともに、地上から、煙のように、消えうせていた。  なにさま、東西百三十間、南北百三十七間の、広い面積を有する山内であった。その中央に、役夫二千人と日数二千日を要して建立《こんりゅう》した大仏殿の、無慚《むざん》な残骸が、その北方に築かれた築山よりも高く、横たわっていた。  佐助が、庭砂に影もとどめぬ迅さで、その巨大な残骸へ、まっしぐらに奔り寄った刹那、虹梁《こうりょう》とおぼしい木材の陰から、十数条の鳥黐《もち》縄が、投網《とあみ》のように、宙に拡がって、佐助の小躯をつつもうとした。 「応《おう》っ!」  佐助は、腰の刀を抜きつけに、五体を旋回させて、鳥黐縄を、八方へ斬りとばしておいて、猿《ましら》のように、折れ重った木材の上を、跳んだ。  跳びつつも、佐助は、間断なく飛来する手裏剣を、刀で払わなければならなかった。  木材と木材のあいだから、ぬっと突き出された大仏の五指の陰を、一呼吸入れる場所にえらんだ佐助は、瞬間、凄じい炸裂音とともに、五指の先がはじけて、火焔が噴《ふ》く意外の奇策をくらって、大きくもんどりうつと、組み重った木材の底へ、落下した。  濛《もう》っと渦を巻く黒煙が、その底から生れた時、佐助は、もはやたすからぬ、と一度は観念したくらいであった。  おのれの生命を救ったのは、やはり、おのれが技であったのだが、二本の足で地上に立ってもなお、どうして、焼死からまぬがれることができたのか、ふしぎな思いだった。  すでに、巨大な残骸は、火焔につつまれて、炎々と燃えさかっていた。  しばらく、茫乎《ぼうこ》として、まっ黒によごれた顔を、熱《ほて》らせていた佐助が、ついに、あきらめて、踵《きびす》をまわした時、 「よくぞ、生命《いのち》をひろうた、猿飛佐助!」  あざけるような声が、あびせられた。  視線をまわした佐助は、目を瞠《みは》った。  築山の、臥竜《がりょう》のかたちに匐《は》った松の幹に腰かけていたのは、褐色の頭髪を総髪にむすび、青い瞳を高い鼻梁に、驕慢《きょうまん》の気象をのこりなく示している異邦の若者であった。  呂宋助左衛門《ルソンすけざえもん》から霧隠才蔵《きりがくれさいぞう》と名づけられて、柬埔寨《カンボジャ》からはるばる海を渡って来た兵法者《ひょうほうしゃ》にまぎれもない。 「おぬしが、伏兵であったかい!」  佐助は、あらたな闘志をわかせた。 「いいや、貴様を苦しめたのは、おれではない。おれは、ただの見物人よ。大層面白い見物であったわ」  霧隠才蔵は、そう云って、哄笑《こうしょう》した。  佐助は、対手に、いまは、敵意のないのをさとると、黙って、歩き出した。 「佐助!」  ——心安う、わしの名を呼びすてるな。  佐助は、口のうちで呟いて、ふりかえりもしなかった。 「佐助、おぼえておけ。おれは、豊臣小太郎秀松に就くぞ。秀松に天下を取らせて、おれは、百万石の大名になってやろうず——」  ——なにを、阿呆《あほう》なたわ言をうそぶいて居る。  佐助は、首をふって、遠ざかったのであった。  三 「小冠者は、仇討、と申したか」  幸村は、かなり、長い沈黙ののちに、ぽつりともらした。 「お主《しゅう》様。あれは、やはり、贋者《にせもの》でありましょうな?」  佐助は、訊ねてみた。 「そうさな。たぶん贋者であろうな。しかし贋者ではない、と思えるふしもある。いずれにしても、生かしておいては、豊家のためになるまいが……」  幸村は、思慮に富んだ眼眸《まなざし》を、宙に置いていたが、 「たしかめてみることにするか。……佐助」 「はい」 「むかし、聚楽第《じゅらくだい》で、関白殿(秀次)に、吉利支丹宗門《キリシタンしゅうもん》の法を説いた伴天連《バテレン》がいた。たしか、フロイシと申した。関ヶ原の戦いの頃に、いまだ、洛北の小庵に、健在でいると噂にきいた。……ひとつ、さがして、つれて来てくれぬか」 「かしこまりました」  佐助は、その夜のうちに、京の都へ、とってかえした。  佐助が、一人の老いたる伴天連をともなって来たのは、それから六日後であった。  すでに、視力も殆んど使いつくし、病身を杖にすがらせなければ歩行もおぼつかない程、よぼよぼにおとろえていたが、幸村から鄭重《ていちょう》にもてなされて、むかし語りを所望されると、意外なくらい記憶力のたしかさを示した。  ポルトガルから茫々《ぼうぼう》たる巨海の浪を押し渡って来た伴天連ルイシ・フロイシが、まねかれて、聚落第に入った時、すでに、秀次は、殺生《せっしょう》関白と、世人から恐れられていた。  秀次は、三好武蔵守|一路《かずみち》の長子であった。豊臣秀吉の異母姉瑞龍院日秀が、その母であった。  永禄十一年に生れ、一時は宮部継潤の養子となり、その後、阿波の三好康長の養子になって、三好孫七郎と称した。天正十九年十一月に、秀吉の養子となり、内大臣に進み、関白職を譲られて、聚落第に居を構えた。二十四歳の時である。  フロイシが第《やしき》に入った時には、すでに三十路《みそじ》に達していた。背は高く、恰幅《かっぷく》おおらかに面長で色白く、頬は豊かに、顎は細く、眉は月形に、まなこはつぶらに、鼻筋が通って、口元はしまり、やや前額が出ているほかには、まず申分のない殿振りであった。  関白職に就いた頃は、武人に似合わず、生得《しょうとく》優しく、才覚がすぐれ、識見が高く、かくべつ文事を嗜《たしな》むことにおいて、当代に比肩《ひけん》する者もない、という評判であった。それだからこそ、天下を戦い取った秀吉が、それを泰平の世として知行するに、もっともふさわしい、と見込んだのであったろう。  奈良の僧徒を召して源氏物語を写させたり、歌道の名匠に接したりして、屡々《しばしば》詩歌の会を開いた。その書は、尊円親王より出て頗《すこぶ》る運筆の妙を得ていたし、和歌にも、詞藻に長《た》けた天才的なひらめきを示していた。また、古人の筆蹟を愛重《あいちょう》した。  京都の金蓮寺の開基である素眼和尚は、尊円親王の御直門流で、その墨蹟《ぼくせき》は、世人に珍重がられていた。金蓮寺所蔵の素眼和尚筆蹟が、質屋に納められてあるのをきいた秀次は、これを購《あがな》い返して、素紙などを修補し、朱印を添えて、金蓮寺に寄附したものであった。  謡曲の文辞を、解釈的に観ようと企てたのも、秀次をもって嚆矢《こうし》とする。謡曲は、足利時代の文学であるが、世人はただ、詞曲を諷誦《ふうしょう》し、舞容を愉しむだけにとどまって、曾て解釈的に、あるいは批評的に、これを観ようとした者はいなかった。しかし、秀次は、五山の僧徒及び有職《ゆうそく》家、神道家、歌人、記衆に命じて、謡曲百番を校正註釈せしめたのである。  戦乱百年の世であった。文学は全く地を払って、わずかに、一線の命脈を五山僧侶の間につないでいるだけであった、公卿ですら、家々所伝の学を講究することをすてていた。学術の衰退は、この時よりはなはだしきはなかった。  関白秀次は、二十代半ばの若さで、一般学術を挽回《ばんかい》しようとする志を抱いたのである。  その秀次が、突如として、その志を放棄したばかりか、優美な性質をも一変して、殺生関白と化したのであった。  その乱行は、一日、北野へ遊山に出たおり、道を行く座頭をみとめて、酒を呉れようと、呼び寄せ、盃《さかずき》を把《と》らせておいて、いきなり、その右腕を斬り落すことからはじまった。座頭は、見えぬまなこをひき剥《む》いて、声をかぎりに救いをもとめつつ、のがれようともがいた。秀次は、その有様を、冷やかに眺めていたが、扈従《こじゅう》の熊谷|大膳亮《だいぜんのすけ》に、血刀を渡して、「彼奴《きゃつ》の左腕も、斬り落せい」  と命じた。  双腕《そうわん》を喪《うしな》った盲人は、咲き乱れた桔梗《ききょう》の花の中で、のたうちまわり乍ら、呪誼《じゅそ》の言葉を、きれぎれにのこしたが、以後、秀次は、その声を、深夜の悪夢の中で甦《よみがえ》らせることになった。  伴天連フロイシは、第に上った翌日、秀次にともなわれて、粟田口の刑場におもむいた。  その高台には、周囲に土塀を築き、中央に大俎板《おおまないた》を据えて、死罪の科人《とがにん》を仰臥させて、手足を大の字なりに四隅に括《くく》りつけてあった。  秀次は、自ら、差料を抜きはなって、つかつかと歩み寄り、 「関白秀次、手ずから引導《いんどう》を渡してやるほどに、冥加《みょうが》と心得て往生せい」  と、云いはなった。  秀次は、この生贄《いけにえ》を一太刀に打ちおろして、胴斬りになどしなかった。  まず、白刃を、科人の咽喉《いんこう》へあてて、すうっと、薄斬って、 「どうじゃ、痛いか? 苦しいか? もそっと、斬るか。これで、どうじゃ」  文字通り一寸試しにして、残忍な愉しみを味わうのであった。  咽喉から血を噴いて、一面に蒼く変った亡者の貌《かお》を、じっと凝視《ぎょうし》する秀次の目は、憑《つ》かれた者のそれであった。  その次の日には——。 「伴天連殿。今日は、生殺自在の神技を見せようか。お主が申す天主《デウス》の大能に勝る妙力の程をな」  にやりとして、近習の一人に、「あの女を、庭さきへ、引き出せい」と命じた。  大奥の女房の一人で、茶坊主と密通した咎《とが》で、閉じ込められているあいだに、臨月の腹になった女であった。  秀次は、差料を携《ひっさ》げて、庭へ降り立つと、うなだれた女に、 「そちは、いまだに、腹の児は、この秀次の種じゃと云いはって居るそうな。茶坊主めと通じては居らぬ、とあくまで否定いたすか」  と、訊ねた。  女は、微かな声音で、うなずいた。 「もう一度、糺《ただ》すぞ。腹の児は、この秀次の種に相違ないのだな? しかと、そうか?」 「はい——」 「よかろう。では、関白秀次自ら、その腹の児が、わが子かどうか、あらためてつかわそう」  下人を呼んで、女を素裸に剥《む》いて、四肢を押えるように命じた。哭《な》き叫んでゆるしを乞う女がそうされるのを、冷笑し乍ら待ちかまえた秀次は、おもむろに、差料を抜きはなつと、 「神仏になと、亡き親へなと、祈りをこめい!」  と、云いざま、鳩尾《みぞおち》のあたりへ、ぶすりと一突きくれて、それを抜きもやらずに、ぎりぎりと下腹の果てまで裂き下した。 「下郎ども、胎児をひきずり出せ」  と命じておいて、 「女どもは居らぬか。嬰児《やや》が生れたぞ! 産湯《うぶゆ》をつかわせて、関白に似て居るか、坊主めに似て居るか、とくとあらためい!」  と、呼ばわった。  伴天連フロイシは、勿論、ふかく俯向いて、この惨たる光景を看ようとはしなかった。戦場を幾度も駆けた経験のある近習たちさえも、顔面をこわばらせて、ただ固唾をのんでいるばかりであった。  四  濫行《らんこう》が嵩《こう》じれば、科人だけを斬るのにあきたらなくなり、無辜《むこ》の民をも殺《あや》めることになる。  ぶらりと、北野あたりへ出かけて行き、道行く旅人や、野に働く農夫めがけて、矢を射かけてみたり、遁《のが》れんとするのを、馬で追って斬りすてるのを、日常の振舞いとしはじめた。  さらに——。  所従の侍たちの中から、使い手を呼び出して、真剣勝負を所望した。故意に、その名ざすところは、平常親交のある朋輩《ほうばい》同士であった。  兄弟よりも親しく、肝胆相照《かんたんあいてら》している同士が、上意を受けてやむなく、白刃を構えて、対峙するうちに、しだいに、殺気を帯びて来て、互いに対手《あいて》を討ち果そうとの闘志を、まざまざとみなぎらせるさまが、秀次の残忍な快感を呼ぶのであったろう。  フロイシは、若い忠義のさむらいが、次々と君前で生命を落すのにたまりかねて、きつい言葉で、諫言《かんげん》してみたが、秀次は、歪《ゆが》んだみにくい笑いを泛べて、 「わしは、親子の慈愛とか、夫婦の情愛とか、朋輩の友誼《ゆうぎ》とか、そんなものが、一切あてにならぬことを、見とどけたいのじゃ。人間と申すものは、所詮《しょせん》おのれ一人の心しか信じられぬものであろうがな……」  と、云いすてていた。  秀次のこうした虚無精神は、すでに十七歳の時に、めばえたようであった。  秀次は、小牧の役に、長久手で、家康と戦って、無慚な敗北をきっし、敗走したが、この戦いにおいて、秀吉の附人であった木下助左衛門、木下|勘解由《かげゆ》という二人の勇士を討死させて、秀吉から厳しく戒飭《かいちょく》されている。  秀吉の手紙の文中に、 「今の如く無分別のうつけにて候へば、命を助け遣はし候とも、秀吉甥子の沙汰候て、秀吉に於て面目を失ふ可きに候間、手討に致す可く候」  とある。  しかし、この戦の敗因は、秀次にはなかった。  池田勝入が、秀吉に進言した作戦があやまったのである。  池田勝入は、 「徳川勢は、いま小牧山に総出陣なれば、三河の本城岡崎の備えは全くの手薄でござろう。されば、この虚《きょ》を衝いて、岡崎の根城を間道より襲って、攻め落せば、自然と小牧の陣は崩れると存ずる」  と、進言したのであった。  たしかに、面白い思いつきであった。秀吉も、うかと、その奇策を容れてしまった。  家康には、さらに、その奇策の裏をかく老練な思案があったのである。  伊賀の忍者服部平六から、池田勝入を先陣に、三好孫七郎秀次を後詰にする一万数千の兵が、柏井《かしい》方面に向って動く、と急報があるや、家康は、その目的が岡崎城を取るにあると読みとり、直ちに、精兵六千をすぐって、小牧の陣営をぬけ出し、敵の右側を潜行し、庄内川を徒渉《としょう》して、小幡城に入った。  侵入軍は、これに全く気がつかなかった。後殿《しんがり》の秀次は、小幡城の東南一里の小丘に屯《たむろ》して、夜を明かし乍ら、なんらの警戒もなさなかった。  そこを——大須賀康高、丹羽氏次、水野忠重、岡部長盛らが、一挙に襲いかかった。  つづいて、榊原康政が、背後より、凄じい鯨波《とき》を噴きあげて、攻撃した。  討たれる者、遁《に》げる者、数も知れず——秀次の部隊は、大津浪をくらった小部落のように、四散した。  秀次自身が、馬にはなれ、徒歩《かち》立ちとなって、奔《はし》るうちに、味方の武者|可児《かに》才蔵吉長が、鎧の袖に矢を三筋ほど射通され乍ら、折れ槍をかい込んで、狂い馬を乗通そうとした。  秀次は、狂気のごとく、 「その馬を貸せっ!」  と、絶叫した。  可児才蔵は、秀次と気づかず、 「夕立の傘じゃっ! めったに貸されるか!」  と、呶鳴りかえして、駆け走ってしまった。 「わしは、秀次だっ! 大将秀次だぞっ!」  必死に奔る秀次を、ようやく附人の木下助左衛門がみとめて、大将首を討ち取ろうと躍起に射かけて来る敵にむかって、秀次の生身の楯《たて》となり、大太刀かざして蜘蝶手十文字に振りまわして飛び来る矢をはらいのけていたが、やがて、真額《まびたい》を箆深《のぶか》に射たてられて、礑《どう》と仆《たお》れた。  折から、またどっと挙がる山呼《さんこ》につづいて、幾百とも知れぬ筒音が空をつんざくのをきいた秀次は、  ——もはや、これまで!  と、覚悟した。  その時、馬上武者一騎が疾風のように駆け寄って来て、 「殿っ! この馬を召して、本陣へ退《ひ》かれいっ!」  と、叫びざま、秀次を、鞍《くら》へ押しあげた。同じく附人の近習木下勘解由であった。すでに、敵勢に追われて、多くの矢を、鎧の裏にかかせて、吐く息も炎となっていた。 「八幡っ! 勘解由、頼んだ!」  秀次は、無我夢中で、馬腹を蹴った。  一町を駆けて、ふりかえった時、勘解由の姿は、むらがる敵兵の中に、のみ込まれてしまっていた。  長久手陣の首尾は、決して、秀次の咎ではなかった。謀略の裏をかかれて、不意攻めを受けては、鬼神と雖も、ほどこす術《すべ》はない。家康が、裏をかくか、かかぬかの分別は、総大将たる秀吉自身の責《せめ》ではなかったか。  秀次は、秀吉からのきびしい叱責の手紙を受けとった時、胸中そう思った。しかし、誰にも一言も、愚痴をもらしはしなかった。  五  秀次が、フロイシを居室にまねき、吉利支丹宗門の法を説かせて、耳をかたむけたのは、フロイシが第に入ってから一月もすぎてからであった。  秀次は、珍しく、沈鬱《ちんうつ》な、孤独な寂寥《せきりょう》を刷《は》いた面持で、一人、居室にいたが、フロイシが入って来ると、ひくい声音で、 「お主《ぬし》の宗門のことは、かねて、黒田如水からも、小西摂津よりも、きいていたが、帰依《きえ》する信心が起らぬ上からは、話をきいても、しかたがあるまい、と思っていた。……今日は、なんとなく、きいてみたい気が起った。きかせてくれまいか」  フロイシは、今日の日の来るのを待っていた、と心からよろこびの微笑を泛べた。 「吉利支丹の教えによれば、霊魂《アニマ》とやらがあるそうなが、その霊魂が、来世は天主《デウス》の検断を受けて、不替の苦楽を申しつけられるというのは、まことか?」  フロイシは、こたえた。  霊魂は、色身が寂滅《じゃくめつ》した後も不易《ふえき》であること。天主の御検断も不替の苦楽も、しかとまことであること。はやく洗礼《パラチシモ》を|受け《ヒリヨ》て、御子ゼズス・キリストの教《のり》に添わないと、永劫|地獄《インヘルノ》の苦患《くげん》は一定《いちじょう》であること。身罷《みまか》っての後の悔いは、もうおそい。わけて、濫《みだ》りに人を殺《あや》め、日夜邪淫に荒《すさ》む行状は、来世の応報はもとより、今生《こんじょう》の天罰もさぞや、と存ずる。天罰を受けてしまっては、天主の恩寵《ガラサ》を招く由もない。洗礼など、思いもよらぬ。是非ぜひ、正路にお立ちかえりあそばされたい。  とつとつとして、フロイシは述べた。  この言葉は、おのが一命にかけて申上げるもの、と云い添えた。 「そうか、一命にかけてか」 「わたくしのいのち、生国《しょうごく》を出て参った時、すでに、うちすててござる」 「かまえて、相違ないか」 「かまえて!」  フロイシが頷いた——瞬間、秀次は、背後の差料を、さっと鞠走らせるや、切っ先を、その鼻さきへ、つきつけた。 「その一命、取るぞ!」  ぎらぎらと、眸子《ひとみ》を血走らせて、叫んだ。 「欲しくば、さしあげましょうぞ。この血で、貴方様に洗礼を授けましょう」  フロイシは、泰然として、口のうちで、ゼズス・マリアと、誦念《じゅねん》した。  秀次は、白刃をなげすてると、 「きかせい」  と云った。  フロイシは、語った。  人間の元祖アダンとエワが、天主の勘気《かんき》を蒙《こうむ》り、波羅伊曾《てんごく》を追われて、苦界に堕《おと》されたのは、ひとえに慢気の故であったこと。アダンとエワは、生者死苦、もろもろの苦患《くげん》を何ひとつ知らなかった。そのために、分限を忘れ、慢気を起し、掟《おきて》にそむいた。その末たるわれら人間のあいだに、今に見られる通り、さまざまの苦難災禍が生れた。  フロイシはつづいて、ローマの皇帝《セイゼル》コンスタンチノ大王の例をひき、大王がゼズス・キリストの夢のお告げを蒙って軍陣の旗印に十字架《クルス》をつけて合戦にのぞみ、大勝を得、ついにローマの国を治定して、国中に吉利支丹の法を敷いた次第を、逐一物語った。  秀次は、じっと耳をかたむけて、きいていたが、やがて、 「御坊、ひとつ、承りたい。吉利支丹宗門では、人妻の不義を、なんと処分いたすのか」 「さればであります。ただひとえに、天主《デウス》のご成敗にまかせます」 「良人として、不埒の妻の成敗は、叶わぬのか?」 「なかなか……。むかし、キリスト御出生の前までは、すべて姦淫を犯した女人は、石で打ち殺すのが、ジュデヨの民の慣《なら》いでありましたが……」 「石で打ち殺す! そうか」  フロイシは、いそいで、ゼズス・キリストは、人が人を成敗するのは固く戒めたもうたことを説いたが、秀次の耳には、入らぬようであった。  秀次の面貌は、また、雲間の陽ざしに一時照り映えた古沼が、忽ち昏《くら》くかげったにも似て、怪しく沈んだ。 「御坊——。ある人妻が、良人の留守に、その良人の義父に招かれて、その家に行き、一夜の伽《とぎ》をしいられた、とする。人妻は、拒むか、然らずんば、死ぬべきであったにも拘《かかわ》らず、うかうかと、義父に身をまかせて、何食わぬ顔で、もどって参った。この女、石で打ち殺すねうちがあろうな」 「その女人、はたして、姦淫を犯したか、犯さぬか——これは、当の二人と、天主《デウス》のみが知るものでありますれば、成敗は、天主に委せるよりほかに、道はありますまいが……」  秀次は、それから、長い間、黙然《もくねん》として、異邦の出家を前に坐らせたきりであったが、ふっとわれにかえったように、几上《きじょう》の金の鈴を鳴らした。  侍女が入って来ると、 「笹香《ささか》を、庭へ据えい。成敗する。これは、御台《みだい》にも見物せい、と申しつたえい」  と、命じた。  笹香というのは、近習の一人と不義を犯したと、沙汰のあったお側女房であった。男の方はすでに、秀次が、手討ちにしていた。  冬近い寒空の下に、笹香は、一糸まとわぬ素裸にされて、高麗燈籠《こまどうろう》へくくりつけられた。  秀次は、御台のお末《すえ》の方をともなって、広縁へ出て来ると、 「手討ちの成敗にもあきた。すえ、そもじが、わしに代って、成敗してみぬか」  と、かえりみた。その目つき、口もとは、異様な冷たさを湛えていた。  お末の方は、おどろいて、女子《おなご》の身で、何条もって、そのようなむごいまねが叶いましょうか、とかぶりをふった。 「笹香をたすけたいのか? そもじは、不義者を憎まぬか?」 「科《とが》をにくんで、人を悪《にく》まぬ、ということもございますれば……」 「遁辞ときこえた」  秀次は、ゆっくりと、庭へ降り立つと、拳《こぶし》ほどの石を、三つ四つひろったとみるや、高麗燈籠にくくりつけられた白い裸身めがけて、 「くらえ!」  発矢《はっし》と、投げつけた。  それは、狙いをあやまたず、ふっくらと盛りあがった乳房のひとつに、当った。  悲鳴とともに、笹香は、のけぞった。 「南蛮においては、不義者の成敗は、これが作法じゃ!」  秀次は、石の一個を、お末の方の膝へ抛《ほう》ると、 「そもじも、ひとつ打てい。さ、やらぬか!」  と、呶鳴っておいて、おのれは、第二撃をくれた。  それは、鳩尾《みぞおち》のあたりに当った。笹香は、声も立たぬ激痛に、ただ、五体も髪毛も、|もがら《ヽヽヽ》のようにわななかせた。  秀次は、それから、つづけさまに、笹香めがけて、発矢発矢と、投げつけた。  白い肌が——乳房から下腹にかけて、みるみるうちに、紫色に腫れあがり、当るたびに、下肢をぐうんとつッぱり、首をねじ曲げ、胴を弓なりに反《そ》らした。  と——その時。  ふかく俯向《うつむ》いていたお末の方が、にわかに身を起して、広縁から駆け降りて、笹香にむかって走り乍ら、懐剣《かいけん》を抜きはなった。 「許しや、笹香!」  そう云いざま、お末の方は、白刃を、笹香の胸に突き立てると、すばやく裲襠《うちかけ》をぬいで、血にそまった裸身を蔽うてやり、秀次の方へ、頭をまわした。 「……むごいお仕打を、もう、これより長う、見て居られませなんだ」  呟くように、もらしてから、地べたへ崩れると、気をうしなった。  秀次は、しかし、冷然として、それを扶《たす》け起そうともせず、 「そうであろう。そもじが、正視に堪える筈がない。ははは……」  うつろにわらいすてて、奥へ去った。  フロイシは、幽鬼に似たその後姿を見送って、秀次の優しい性情を、一変させた原因が何であるか、ようやく、さとったことであった。  六 「関白殿の御台所が、太閤殿下に招かれて、館《やかた》に泊め置かれたのは、いつ頃のことか、おききおよびか?」  幸村は、老いさらばえた異邦の出家を、じっと見据えた。 「されば……秀次様奥州御出陣のお留守中であった、とききおよび申したが……」  恰度《ちょうど》、いまから、十五年前のことになる。  お末の方は、茶の湯の会に招かれて、伏見城に行き、十日あまり、帰って来なかった。  秀吉の好色は、並はずれて居り、大名衆の北の方など、その容色に目をとめると、平気で、館に泊めて、一夜の伽をさせるのは、隠密乍ら、知らぬ者はなかった。  秀次は、奥州から帰還して、偶然、そのことをきいた。しかし、お末の方自身は、決して、伽には侍《はべ》らず、ただ、嫁に対する舅《しゅうと》として秀吉が、可愛がってくれたので、つい十日あまり過したのだ、と固い誓文をたてた。日頃の貞節な行跡に照らせば、それもあながち空誓文とも思われず、証拠もない以上、無下《むげ》に成敗も叶わなかった。しかし、いったん、かきくもった疑念は、ついに晴れなかった。  秀次は、あまりにも、妻を愛していた。戦国の武将としては、稀有《けう》ともいえる潔癖な性情の持主で、妻以外に、女を知らなかったのである。  それだけに、妻にかけた疑惑はどす黒く、おのれ自身をも破滅に追いやるほど、前途に希望の灯を見うしなってしまったのである。 「御坊、お末の方は、それから十月《とつき》後に、若君をお生みになったのでしたな」  宰相は、問うた。 「左様、それがしが、洗礼を授けまいらせて、マンシオの名をお贈りつかまつりました」  老伴天連は、目を伏せてこたえた。  秀次は、小太丸《こたまる》というその若君を、ついに一度も、抱いたことはなかった、という。  秀次が叛逆罪に問われて、高野山において、死を賜ったのは、文禄四年七月であった。  秀吉は、もはやわが子はめぐまれまいとあきらめていたところ、五十八歳で、淀君に秀頼が生れたので、もはや、秀次は全く邪魔な存在となったのである。石田三成は、秀吉の意を迎えて、種々の手段をもって秀次の罪を羅列して、叛状を構成したのであった。  伊達政宗の叔父伊達|成実《なりざね》が、次のように記している。 [#ここから2字下げ] 秀吉公御在陣ノ内、若君様御誕生ナサレ候、秀次へ聚楽第御渡シ候ヲ内々秀吉公ニハ御後悔遊バサレ候哉、治部少輔三成見届ケ御仲ヲ表裏候由見へ候 [#ここで字下げ終わり]  秀吉は、秀次に逆心あるという流言をきいたと称し、石田三成、増田長盛らを聚楽第に遣わして、その儀を詰問させた。秀次は、七枚つづきの誓紙をしたためて、異心のないことを陳じた。秀吉は、しかし、許さず、五日後に前田玄以たちを遣わして、秀次を召喚した。  その時、秀次は、すでに、死を覚悟して、フロイシにも、別れを告げた。  はたして、秀次が伏見におもむくや、秀吉は謁見を許さず、位を剥ぎ、高野山の木食《もくじき》上人に命じて、厳重な監視のもとに、青厳寺《せいげんじ》に幽《ゆう》させた。  秀次は、山本|主殿《とのも》、山田三十郎、不破万作、東福寺隆西堂らの股肱《ここう》とともに、切腹して果てた。  秀吉は、それだけでは許さず、御台お末の方や三人の子をはじめ、三十余人の寵妾《ちょうしょう》たちを、車で洛中引廻しの上、三条河原で首斬らせた。  その日、三条河原には、二十間四方に濠を掘り、鹿垣《ししがき》をめぐらし、橋の下南には三間の塚を築いて、その上に、秀次の首級を西向きに据えてあった。その妻その子その妾らに、拝ませるためであった。  老伴天連は、その日の光景は、見とどけたに相違ないが、思い泛《うか》べるのもいたましげに、語ろうとはしなかった。 「御坊、さいごにひとつ、うかがっておきたい。三条河原で、眷族屠殺《けんぞくとさつ》の際、小太丸君だけは、交っていなかったのではないか?」 「………」 「小太丸君とみせかけて、替玉の少年が、首を刎ねられたのではなかったか?」 「………」 「小太丸君を、別の少年にすりかえたのは、あるいは、もしや、御坊ではなかったか?」  ずばりと云いあてられて、フロインは、顔を擡《あ》げて、幸村を、見かえした。  だが——。  口は開かなかった。  沈黙を置いてから、 「おいとまつかまつろう——」  ひくく、告げて、やおら、腰をあげていた。  フロイシを駕籠で、送り出してから、宰相は、佐助を呼んだ。 「佐助、豊臣小太郎秀松は、贋者ならぬ贋者であった」 「………?」  佐助は、主人の言葉の意味が判らぬままに、せわしく、まばたきした。 「行方をつきとめて参れ。あの伴天連を見はって居れば、そのかくれ家が、判明するであろう」  七  阿弥陀《あみだ》ヶ峰《みね》——。  東山の一峰で、平地を抜くこと約四百尺。  この頂上に、秀吉をまつった豪壮華麗な神廟《しんびょう》が、建立《こんりゅう》されてから、すでに、数年経つ。  慶長三年八月十八日、秀吉は、老いさらばえて薨《こう》じたが、姑《しばら》くその喪《も》が秘された。征韓のため出師《すいし》中だったからである。近臣によって、遺骸は、この阿弥陀ヶ峰に密葬《みっそう》された。  翌年二月に発喪し、墳塋《ふんけい》の域をきめて、豊臣家では、天下の力を尽して、祠廟《しびょう》を墳上《ふんじょう》に築き、嶺の西下に本殿、回廊、拝殿、三門、中門、神饌《しんせん》所、神楽《かぐら》舎、馬舎など、日本中に比肩《ひけん》をゆるさぬ大規模なものを完成し、元勲近臣は、みなその傍《かたわら》に坊舎を築いて、華を供し、燈を献じているのであった。  関ヶ原の役によって、天下が家康の手に渡ってしまってからは、さすがに、公然と、香華《こうげ》をそなえに詣でる大名衆は、あとを絶ってしまい、参詣道がいつもひっそりとしていることは事実である。  いずれは、祭祀の礼が絶たれる運命にあろう。  時刻も、そろそろ昏《く》れがた近くになって、猿飛佐助は、人影絶えた参詣道を、のこのこと、のぼって来た。その頭上で、夕陽に白く映えた山桜が、ひとひら、ふたひら、花びらを舞わせるほかに、全山、鳥も啼かず、一枝もそよがぬ静かなたそがれ刻であった。  一の華表《とりい》を、彼方に見出した佐助は、足をとめた。  次の瞬間、音もなく、佐助の小躯は、地を蹴って、宙に躍りあがり、蔚然《うつぜん》として半天を掩《おお》うた風致樹の高処《たかみ》へ消えた。  ここから、佐助は、空中を飛んで、社殿に近づこうとするのであった。  豊臣小太郎とその一党が、ひそんでいるのは、意外にも、この豊国廟《ほうこくびょう》だったのである。方広寺から、阿弥陀ヶ峰頂上まで、隧道《ずいどう》が掘り抜かれてあることを、佐助は、つきとめたのであった。なんの目的あってのことか、秀吉が、為した仕事に相違ない。  一の華表、二の華表をこえて、すこし登れば、太閤|坦《だいら》に達す。ここに拝殿が設けられている。拝殿の背後から、一直線に、天に沖する石階をのぼること四百八十九級にして、唐門に到り、さらに百七十余級の石段をのぼって、はじめて、廟墓に達するのである。  隧道は、そこまで、地下をくぐっている筈である。  佐助が、一気に、風致樹から風致樹へと飛び移って、唐門わきの空に到った時であった。  突如——頂上の廟墓のあたりで、凄じい雄叫《おたけ》びがあがった。  と同時に、佐助のひそむところからごく近い距離の、巨樹のいただきから、ざわっと、筵《むしろ》を搏《う》つような音たてて、一羽の巨鷲《おおわし》が、舞い立った。  ——来た!  佐助は、大きく目を瞠《みは》った。  石段上に、さっと一個の影が出現したとみるや、百七十余級の石段を、雪の斜面でも滑走するがごとき勢いで、駆け下って来た。虎皮の袖なし羽織をひらめかせた霧隠才蔵にまぎれもなかった。  のみならず——。  いつぞや、堺の街で見かけたと同じく、いまもまた、白い裸女をひっかかえているではないか。  佐助は、思わず、二間を跳んで、唐門の屋根へ、移った。 「霧隠才蔵! それは、なんの振舞いぞ?」  大声で、問いかけた。  石階を十段ばかりのこして、ぴたっと足を停めた霧隠才蔵は、ふり仰いで、にやりとした。 「猿飛佐助よ、われわれは、まんまと、一杯食わされたぞ!」  そうこたえかえしたところへ、巨鷲が、風を起して、翔《か》け降りて来たかとみるや、裸女の両足くびを、むずと掴みとって、悠々と舞い上って行った。 「佐助、豊臣小太郎は、女子《おなご》であったぞ!」 「なんと!」 「おれが味方をして、天下を取らせてやろうと思って、来てみれば、莫迦莫迦《ばかばか》しい、股割れめではないか。いまいましさに、なぐさんでやって、鷲のえじきにしてくれたわい」  云いすてておいて、腰の大小を抜きはなつや、くるりと六尺の長身をまわして、追い降りて来る数十名の敵の群を、なで斬りにする猛気の構えをとった。 「……はっははは」  幸村は、佐助の報告を受けると、急に、笑い声をたてた。  佐助は、きょとんとして、主人を見|戌《まも》った。 「佐助。野盗の群も、どうやら、石田三成の残党やら忍者らを加えて、謀略に巧みになったようだ。豊国廟に納められていた故太閤の遺品を盗んで、思いついたとみえる。頂く大将を、若い女子にしたのは、愛嬌であった」  そう云ってから、ふと、幸村は、真顔になった。 「もしかすれば、まことの豊臣小太郎は、何処《いずこ》か、ほかに、いるのかも知れぬ」   淀君  一  夜半の風が、月光の満ちた中空《なかぞら》で鳴っていた。  きさらぎもなかばになった季節であったが、里から猟人《りょうじん》の足で二日を要するこの山中には、まだ岩蔭に雪をのこしている。陽が落ちるとともに、寒気は凛冽《りんれつ》として、生きものの息をひそめさせる。  隙間風が吹き込む小屋では、終夜、囲炉裏《いろり》の火は、絶やされて居らぬ。  しかし、暖をとるには、あまりにもささやかな、ちろちろとした炎であった。のみならず、それは、三尺をへだてて正座している小屋のあるじに、なんの温気をも与えぬ、いわば、鬼火に似た冷たい陰火《いんか》だったのである。  ただの薪ではなかった。  あるじは、その炎の美しい色を、愛《め》でているのであった。翡翠《ひすい》が燃えるものなら、かくや、と思われる。  さらに、炎が漂《ただよ》わせる香は、幽《かす》かに甘く、優しい。  神仙に似た白髪|白髯《はくぜん》のあるじは、終日炉辺に正座して、この炎を見|戍《まも》り、香気をかいでいるのであった。  年光すでに八十を越えてから、さらに幾歳が過ぎたろう。剣名を天下にほしいままにした塚原卜伝《つかはらぼくでん》は、世俗との縁を断って、いまは、ただ、この小屋に、溘焉《こうえん》として逝《い》く日を待つばかりであった。  卜伝、名は高幹《たかもと》。鹿島神官の祠官卜部覚賢《しかんうらべかくけん》の第二子に生れ、塚原土佐守の養嗣子となって、養父に就《つ》いて剣法を学び、飯篠長威斎《いいしのちょういさい》の秘奥《ひおう》の術を伝え、さらに、千日間、鹿島神官に祈願して、夢中に神託を得て、一の太刀の妙理《みょうり》を悟ったのが、三十歳の時であった。足利将軍義輝、義昭に賓師《ひんし》を以て招遇され、伊勢に遊んでは北畠具教《きたばたけとものり》、甲斐に到っては武田信玄に、一の太刀を教えた。  真剣の試合十九度、戦場に出ること三十七度。一度も不覚を取らず、疵《きず》一箇所も蒙《こうむ》らず、わずかに矢疵《やきず》六箇所を、躰にのこすのみであった。立ち合う敵を討取ること、二百十二人に及ぶ、と伝えられている。  天下を風靡《ふうび》したその赫奕《かくえき》たる剣威《けんい》も、いまは、泡沫《ほうまつ》のように、俗世の中に消えはてて、天正の世を迎えて、塚原卜伝の名は、すでに、伝説化している。  枯木のような老躯《ろうく》からは、一切の想念が去って、ただ、寂然《せきぜん》たる無我があるばかりとみえた。  と——。  青い炎が、急に、せわしくゆらめいて、三尺あまりの高さに、燃えあがるや、ひとなびきに、卜伝めがけて、めらめらと襲いかかった。  入口の戸が、夜風にあおられたように、倒れたのである。  卜伝は、双眸《そうぼう》を細めて、入口に立った黒影を見やった。  月光を背負うたその姿は、幽鬼《ゆうき》にも似て、妖しげだった。 「………」  卜伝は、黙然として、視《み》たままであった。 「彦四郎、帰参つかまつった」  その挨拶に対しても、卜伝は、口をひらかなかった。  彦四郎忠光——卜伝が、六十歳の時の子であった。異常なまでの天稟《てんぴん》をそなえ、二十歳までに、十二人の兵法者《ひょうほうしゃ》を斬った。  卜伝はしかし、彦四郎の再三の願いをしりぞけて、一の太刀の秘伝を授けようとはしなかった。彦四郎の剣が、一の太刀の奥義《おうぎ》にふさわしからぬ妖気をみなぎらせたものだったからである。  一夜、月見に庭に彳《たたず》んでいる卜伝の前に、突如として出現した彦四郎は、白刃を上段にかざして、 「父上、一の太刀の業《わざ》を観《み》せられい!」  と、迫って来た。  卜伝は、無腰であった。  じっと、わが子の構えを見据えていた卜伝は、何を思ったか、やおら、地面へ端坐すると、片手で静かに、おのが総髪を撫であげて、 「斬りおろしてみよ」  と、云った。意外な父の態度に、彦四郎は、戸惑った。  卜伝は、微笑して、 「うつけ者! そちの未熟な腕で、この父の髪毛ひとすじ、斬れると思うか!」  と、揶揄《やゆ》した。  彦四郎は、憤然となって、気合もろとも、卜伝の脳天めがけて、振り下した。  したたかな手ごたえがあったにも拘《かかわ》らず、血煙りもあがらず、卜伝の自若たる坐姿は、依然として、かわらなかった。  唖然《あぜん》として、刀を引こうとした彦四郎は、その太刀先が、白い丸い小石を噛んでいるのをみとめた。  卜伝は、なにげなく頭髪を撫であげた時、その小石を、のせておいたのである。  立ち上った卜伝は、 「彦四郎、小石一個を両断できぬ腕で、一の太刀の極意が、何条もって会得《えとく》できる?」  と、きめつけ、茫然《ぼうぜん》となっている彦四郎の手から、その太刀を奪《と》って、小石をはらいすてるや、 「とくと、見とどけるがよい」  無造作に、気合も発せず、かたわらの手洗鉢《つくばい》へ、斬り下げた。  手洗鉢は、生きもののように、ま二つになって、倒れた。  彦四郎は、その夜のうちに、出奔《しゅっぽん》した。  四年前のことである。卜伝は、それから、間もなく、この山中に隠棲《いんせい》したのであった。  彦四郎が、この四年間に、必死の修業を積んだことは、その立姿を一瞥《いちべつ》しただけで、卜伝には、判った。 「父上、真剣勝負を所望つかまつる」 「わしに勝つ自信ができたか?」 「敗れたならば、もはや、生きのびようとは、露のぞみ申さぬ!」  昂然《こうぜん》として、彦四郎は、こたえた。  卜伝は、囲炉裏から、青い炎をあげる薪の一本を把《と》って、立ち上った。  今宵《こよい》も、空には、月があった。  父子は、雪が降ったように白い空地で、対峙《たいじ》した。  彦四郎は、下段にとり、卜伝は、片手に燃える薪を携げたままであった。 「彦四郎、忍びの術を習うたな?」 「応《おう》——いかにも、習い申した」 「剣の道に、忍びの術が、なんの役に立つ?」 「御覧《ごろう》じめされい!」  彦四郎は、下段剣を、ゆっくりと挙げて、円を描きはじめた。  そして、ひとつの円を描くたびに、その動きは速くなった。  やがて、それは、卜伝の携げた炎を受けて、完全な光の輪になり、彦四郎の顔はそのむこうに溶《と》けた。  一瞬——。  光の輪は、宙へ躍りあがり、唸《うな》りをたてて、卜伝の頭上へ来た。  それにむかって、卜伝が示した動作は、いかにも、無造作なものであった。  面倒くさげに光の輪をはらいのけるように薪をひと振りしただけであった。薪の先は、両断され、炎は、高く月空へ、刎《は》ねとんだ。  卜伝の頭上を跳びこえて、一間のむこうへ降りたった彦四郎は、 「いかに、父上っ!」  と、叫んだ。  卜伝は、あわれむように、 「むだな、修業を——」  と、呟いた。 「なにをっ!」  彦四郎は、直立上段にかまえるや、地面を滑るように、進んで来た。 「引けい、彦四郎!」  はじめて、卜伝は、語気鋭く、云った。 「引けいとはっ!」  総身に、闘志をみなぎらせて、彦四郎は、叫びかえしざま、斬り込んだ。  虚《むな》しく空を搏《う》った——次の刹那、彦四郎は、右の耳朶《じだ》に、烈しい衝撃をくらって、よろっと、上半身を傾けた。 「うぬっ!」  本能の迅さで、白刃を横薙《よこな》いだ彦四郎は、それもまた、いたずらに宙を走らせたと知った瞬間、こんどは、左の耳朶に、同じ衝撃を受けた。 「くそっ!」  喚きつつ、彦四郎は、滅茶滅茶に、白刃を振りまわした。  第三の衝撃は右眼に来た。つづけて、第四の衝撃が、左眼に来た。  そして、闘いは終った。  卜伝は、彦四郎に、薪の先をななめに両断させ、その鋭利な切り口を刃にして、両耳を殺《そ》ぎ落し、双眼をつぶしたのであった。  残忍な処刑を行った卜伝は、昏倒《こんとう》したわが子を、見下して、 「あの世へ道連れにしてやるのが、慈悲であろうが……」  ひくく独語してから、よろめくような足どりで、小屋へひきかえして行った。  朝陽がさしそめた頃、彦四郎は、ようやく、意識をとりもどして、呻きつつ、起き上った。  その時、卜伝は、すでに、炉端に、結跏趺坐《けっかふざ》したまま、この世の人ではなかった。炉の中では、美しい翡翠の色に代って、吐血《とけつ》色の炎が燃えていた。それは、名状しがたい臭気《しゅうき》を発していた。猛毒であった。卜伝は、それを吸って、寂滅《じゃくめつ》したのである。  二  それから、十年間、塚原彦四郎の消息は、杳《よう》として、絶えていた。いかなる大名も、彦四郎をやとうていなかった。  天正十九年二月二十八日夜、豊臣秀吉から切腹を申しつけられた日本一の茶博士千利休が、堺の自邸の奥の間で、辞世の句を茶杓《ちゃしゃく》にしたため終った時であった。  音もなく、忽然《こつぜん》として、その前に、塚原彦四郎は、姿を現した。  両耳を失い、右眼はつぶれていたが、さいわい、左眼は、視力をとりもどしていた。  白昼、人の目のつく場所に現れるのを避けねばならぬ無慚《むざん》な面貌《めんぼう》と化した彦四郎が、ふとした機会に、千利休と知己になり、その人柄に帰依《きえ》し、獰猛《どうもう》きわまる殺人剣を鞘《さや》に納めて、人知れぬ大和山中の庵で、茶の湯に心気を澄ますようになってから、数年を経ていた。 「宗易殿《そうえきどの》、関白から死を賜ったそうなが、まことか?」  彦四郎は、隻眼から、凄味のある光を発して、利休を見据えた。  利休は、黙って、茶杓をさし出してみせた。   提《ひさ》げとる我が得道具の一つ太刀、今此時ぞ天に抛《なげう》つ  そう記してあった。 「お手前が、関白の寵遇《ちょうぐう》を恃《たの》んで、増長し、威福を擅《ほしいまま》にしたのが、罪に問われたと噂されているが、さようなばかげた理由があろうべくもないことは、この彦四郎が、一番よく存じて居る」 「茶の湯が、あまりにさかんになりすぎたのじゃよ、彦四郎殿。たかが、堺の町人ずれが、そのおかげで、大名衆からさえ、頭を下げられるようになった。当人に、その心はなくとも、しぜんに、嫉視《しっし》する敵は増そうというものじゃ。韜晦《とうかい》して、嫌疑をさけるに、時機を失しては、死ぬよりほかはあるまいて」  利休は、たんたんとして、云った。  秀吉が茶の湯を好んだために、日本中にその風潮が起り、秀吉の師となった利休の一言で、茶器が、万金の価《あたい》を持つようになったのは、やむを得ぬ仕儀であった。したがって、利休に茶器を吟味してもらおうと、門前市を成し、贈物は山と積まれたのである。利休が、辺幅《へんぷく》を修飾《しゅうしょく》して自ら高くした次第ではなかった。  利休は、才気あふれていたが、我欲の徒ではなかった。  利休は、茶を武野紹鴎《たけのじょうおう》に学んだ。  ある朝、紹鴎は、利休の才を試そうと思いたち、庭を掃除するように命じた。利休が、庭に出てみると、白砂は箒目も美しく、塵ひとつとどめていなかった。利休は、つと、木立の中に入って、松の幹をゆさぶった。枯松葉が、片々として、波形の白砂上に散って、いちだんと風趣を添えた。紹鴎は、その奇才に感じて、ことごとく秘訣を授けた、という。  また——。  織田信長が、ある時、利休に、肩衝《かたつき》という茶器を差出すように命じた。利休は、これを持合せていなかった。そこで、住吉屋宗久なら、佳品を多く蔵するので、多分所持しているであろうと思って、この旨を伝えて、献じさせた。利休は、宗久とは、かねてから仲たがいしていたが、茶器を紹介するのは公事である、平素の私情をはさむべきではない、と宗久に手柄させたのである。 「宗易殿、死を賜った理由は、もうひとつ、お吟殿を、関白が所望したのを、お断りになったから、というが!」  彦四郎は、訊ねた。  利休は、こたえなかった。  利休の一人娘お吟は、姿色たぐいまれな噂が高く、堺の町人|鵙屋《もずや》なにがしに嫁して、寡居《かきょ》していた。たまたま、秀吉が、東山の花見に、これを瞥見《べっけん》して、心をひかれ、東条行長を遣《つかわ》して利休に、所望した。  しかし、利休は、冷然としてかぶりをふって、 「国を奪ったり城を取ったりなさるかたがたは、人に嫁がせた妹を奪いかえして、利のある方へ呉れることもなさろうが、茶杓の柄を握るわれらは、左様なことは、致すまじきものと心得ます」  とこたえた。  行長は、それではお許《こと》の身の為になるまい、と忠告した。  利休は、笑って、別条あるまじ、これを取られるのみでござろうが、とおのが頭をたたいてみせた。  この報告をきいて、秀吉は、大いに啣《ふく》むところがあった模様である。  お吟は、去年、自害して果てている。 「宗易殿、むざと腹を切られることはあるまい」  彦四郎は、云った。 「いや——見苦しゅうあがいては、せっかく、茶禅一味の侘《わ》びを茶道の本旨にとなえたこの宗易の人格が、傷つき申そう。……彦四郎殿、関白も人の子の父御でござった。棄君を喪《うしな》って、血迷われた」  秀吉は、つい一月前、淀君が生んだ一粒種の鶴松を、わずか三歳で、死なせていた。五十四歳で、はじめて、わが子を得た秀吉にとって、そのよろこびが大きかっただけに、落胆も深かったのである。  利休の賜死《しし》も、秀吉の絶望感のとばっちりに相違なかった。 「豊臣秀吉ほどの人物が、嬰児《えいじ》を喪って、血迷うか」  彦四郎は、あざけりの呟きをもらした。そして、急に、「ふむ!」と頷いた。 「宗易殿。この讐《あだ》は、彦四郎が、必ず復《かえ》して進ぜる」 「彦四郎殿。わしが墓前に、関白の首など、供えて欲しゅうはないぞ」 「なんの! 茶博士の仇討だ。泉下《せんか》で思わずにやりとされるような、鮮やかな報復をしてごらんに入れる」  彦四郎は、利休の介錯《かいしゃく》をしたのち、煙のように、消え去った。  それから、さらに、数年の歳月が、流れた。彦四郎の姿は、いずこにも、現れなかった。  三  慶長三年三月十五日に催された醍醐《だいご》の花見は、太閤秀吉が、あたかも、その年の夏のおのが最期を予感したような、異様な盛事であった。  たかが、桜花を愛《め》でる催しのために、秀吉は、自《みずか》らしばしば足をはこんで、大がかりな準備をしたものであった。  最初に、二月はじめ、醍醐寺に下検分におもむくや、堂宇、小座敷、常御所、台所までことごとく覧《み》てまわり、塔婆、二天門の修理を命じた。二度目に出かけて行くや、寝殿の建立を命じ、桜の馬場を広くさせ、金堂も再興するように云付けた。さらに、三度目に醍醐にあらわれた秀吉は、桜の馬場の中に、横三間の堀を通せ、と命じたのをはじめ、池泉の中島へ護摩堂を一宇建て、橋をかけ、滝を二筋落すようにさせ、せっかく建てた二天門を、馬場通りに移せ、と申しつけた。  こうした熱心さは、誰の目にも、異様なものに映らずにはいなかった。  三月に入るや、その熱心さは、いよいよ熱度をくわえ、五回も出かけて行った。  秀吉があらわれる毎に、醍醐寺は、大変なトクをした。領知千石を拝領した。金堂、講堂、食堂《じきどう》、鐘楼、経蔵、塔、湯屋、三門、塔婆の建立が約束された。門跡寝殿も建ててもらうことになった。舞台楽屋もつくってもらうことになった。  秀吉は観桜の日と定めた十五日の前日も、急に、思い立って、出かけて行き、自分の命じた通り、万端準備が成っているかどうか、見とどけた。その日は、強い風雨であったが、秀吉は、平気で濡れた。  帰途につくや、秀吉は、 「これでよし、おひろい(秀頼)に天下一の花見をさせてやれるぞ。ははは……明日は、日本晴れじゃ」  と、愉快そうに、云った。  家臣のうち、一人として、明日晴れるであろう、と思う者はいなかったにも拘《かかわ》らず、秀吉は、おのが意志によって天候さえも自由にできるがごとく、確信を持っていた。  鶴松を喪って落胆していた秀吉は、思いもかけず、それから三年後に、秀頼をもうけたのである。  秀吉は、秀頼が生れるや、日本の総兵力を投入しようとしていた朝鮮役さえも忘れるくらい有頂天になったのである。秀頼のために、大邸宅を京都に築造した。  醍醐の花見も、秀頼のためであった。  当日——。  天も、秀吉の熱意にほだされたように、一斑の雪片もとどめぬ快晴となった。  上の醍醐より下の醍醐までが、観桜の場所で、その周辺五十町四方、山々二十三箇所に、弓槍鉄砲を手にした警固の士が、うちめぐらした幕の内外に立った。伏見から、下の醍醐までは、小姓衆、馬廻りの士が、隙間なく、警固した。  伏見の城を出た行列はえんえんとして、十町もつづいた。一番の輿《こし》に北政所《きたのまんどころ》、二番の輿に淀君、三番の輿に京極局、四番の輿に三条局、五番の輿に加賀局、そして、六番の輿に、秀吉は、秀頼を抱いて乗った。  下の醍醐に至ると、もう左右は桜樹の竝立《へいりつ》であった。秀吉が、移植せしめたのである。  秀吉は、輿の垂れをはねて、 「ほれ、おひろい殿よ、父《てて》が咲かした桜花じゃぞ。きれいであろうが!」  と、大声で、云った。  山上山下は春光に満ち、万朶《ばんだ》の花は花と色をきそい、空《そら》だきの衣香は四方《よも》に薫《くん》じ、まことに、太閤一代の栄華を、この一日に縮図した景色であった。  仙洞《せんとう》、公家《くげ》、武家、城都奈良堺からの折物、高麗《こうらい》の珍物、国下の菓子、天野奈良酒、加賀の菊酒、関東の江川酒など、いろさまざまの贈りものが、金銀をちりばめた器にのせられて、宴席にならべてあった。  その一番の茶屋をすぎて、のぼりになる。左右には紅白の幔幕《まんまく》が張られてあった。  秀吉は、秀頼の手をひいて、行った。  二番の茶屋は、新庄道斎が建てたもので、岩淵に水をたたえ、鯉や鮒が放してあった。三番の茶屋は、長谷川宗仁|法眼《ほうげん》が建てたもので、南|破風口《はふぐち》に台子《だいす》をかざり、繋馬《つなぎうま》の絵をかけ、いかにも風流であった。四番の茶屋は、増田右衛門尉が建てたもので、これは、立派な館であった。  すべての茶屋に日本中の珍酒佳肴が用意してあった。  茶屋は、六番まであった。  そこは、桜樹でぐるぐると、とりまいた台地になり、中央に緋毛氈《ひもうせん》が敷かれ、歌などをよむような席にしつらえてあった。  秀吉は、秀頼に手をひっぱられて、緋毛氈の上に出て行くと、おのれが幼少の頃にうたった鄙歌《ひなうた》を手拍子とって、うたいはじめた。  淀君は、とある桜樹のわきに彳《たたず》んで、微笑し乍ら、のどかなその光景を眺めていた。  羽織っている金銀彩糸の綸子《りんず》の打掛が、ふわっとひるがえったが、淀君は、風にでもあおられたぐらいに思って、気にかけなかった。  灰色の装束に、灰色の布で首を包んだ人物が、らんまんと咲き誇る桜花の梢から、鳥影が掠めるように飛び降りて来て、打掛の中へ忍び入ったのである。  淀君は、衣裳が、帯の下から裾ちかくまで、鋭利な刃物で、すーっと截《き》られても、まだ、気がつかなかった。  刃物は、下着も、下裳《したも》も、截った。  そのあいだから、一本の手がさし入れられ、臀部《でんぶ》の柔かな丸い谷間を割って滑り込むと、五指は、ふっくらと盛った肉襞《にくひだ》にふれた。  淀君は、あまりの衝撃で、声も立たなかった。 「おしずかに! 騒がれると、お生命《いのち》を申し受ける」  ひくい、鋭い声が、背すじをつたうと、淀君の耳朶《じだ》を搏《う》った。 「顔に、笑みを絶やされるな!」  一指が、微温《ぬる》んだ濡襞の中へ、するりと掻き入れられた。他の四指は、ゆたかな茂咲《もくさく》のみず野の堤を、しっかとおさえていた。 「淀殿。七年前の夏の宵のことを、思い出されい。あの時も、このようにして、そもじは、この曲者の手にとらわれ申したな」  曲者は、そう云った。  淀君は、云われるまでもなく、曲者が、七年前に、出現した男と同一人物であることを、さとっていた。  四  七年前——。  淀君は、朝鮮制覇の大本営である肥前名護屋の城に、在った。  秀吉は、一子鶴松の夭折《ようせつ》を悲しみ、朝鮮を制覇する壮図によって忘れようとしていた。秀吉は、壱岐《いき》・対馬《つしま》へ営所を設け、さらに進んで朝鮮に入り、やがては、大軍勢を明《ミン》国へ押し進める肚《はら》であった。  日本軍は、朝鮮を席捲《せっけん》していた。  朝鮮王は逃亡し、日本軍は、京城を占領した。この捷報《しょうほう》をきいて、秀吉の意気は大いに昂揚し、いますぐにも、自らも、海を渡るであろうと、宣言した。  その折、秀吉の母|大政所《おおまんどころ》が、八十歳で、京都|聚楽第《じゅらくだい》で危篤《きとく》に陥った、という悲報がとどいた。  秀吉は、とるものもとりあえず、上洛して行った。  名護屋には、ひとり、淀君がのこった。  盛夏であった。南国の暑気は堪え難いばかりで、日中は、外へ出ることは叶わなかった。  陽が落ち、夕凪が吹いて来る時刻になって、淀君は、館の南端に設けられた能舞台に出て、ひとりで、涼むならわしだった。  名護屋は、肥前国東松浦郡の北方に突出した小半島で、前に加部島を控え、名護屋浦なる港湾をへだてて、呼子の地と接していた。  館は、延長一里の波戸岬を望む台地にあり、海に陽が沈んで、つかの間の明るさののこる頃合は、眺めが素晴らしかった。  その宵も、淀君は、舞台の端に立って、岬や浜辺や海が、淡い夕色に溶けこもうとする美しい景色に、ぼんやりと見入っていた。  どこから出現したか、忍び装束の男が、音もなく、するすると淀君の背後に迫って肩脱ぎの帷子《かたびら》の打掛を、ひょいと捲くって、その中に忍び入った。  淀君は、しかし、すこしも、気がつかなかった。  下げ帯の下の、臀部をまとうた部分が、一直線に、截《た》たれて、一本の腕が、挿入して釆た瞬間、淀君は、悲鳴をあげようとした。だが、間髪《かんはつ》の間に、背筋の急所を、ぐいっと押さえられて、声をとめられた。 「騒がれるな! 騒ぐと、容赦なく、お生命《いのち》を申し受ける」  打掛の中に蹲《うずくま》った曲者は、鍛えた声音で脅しつつ、太腿と太腿のあいだへ突き込んだ手を、轟《うごめ》かせて、羞恥の秘部を五指の内に容れた。 「淀殿、これは、ただのたわむれではござらぬ。……太閤は、この世で唯一の子宝を喪って、その憂《うさ》を忘れるために、このたびの朝鮮征伐を企てられた。おのれを、大明の王たらしめて、胸中の幽悶を排せんとされて居る。それほど、掌中の珠が砕けた打撃は大きかった。たとえ、大明に入って、皇帝となっても、その悲しみは消えはせぬ。太閤が、真に欲しているのは、朝鮮でも大明でもない。子宝でござる」 「………」  淀君は、全身をわななかせつつも、一本の太腕を股ではさんで締めつけるこの異様な事態に、一種の名状しがたい刺戟をあじわっていた。 「ざんねん乍ら、太閤には、もはや、子宝をもうける能力は、ござるまい。左様——、夜な夜な、貴女を抱いて寝て、十日に一度は大層な苦労によって、精気を放って居るが、その中には、すでに子種は無い。……しかし、若い貴女の躰は、子を宿すことを欲して、もだえておいでだ。たやすいことだ。のぞむがままに、すぐにも、腹はふくらみ申すぞ。さいわいに、太閤は、京に在って、老母の喪に服されて居る。当分は、名護屋に参られまい。……この夕涼みの、あたりに人目のないひとときを、十日ばかり利用されるならば、やがて、太閤を狂喜させることができ申すぞ」  もはや、老いたる覇者《はしゃ》の子を生むことはできまい、と思っていた淀君であったが、いま、何者とも知れぬ人物から、悪魔的な囁きを受けて、はっとなった。  自分が生むのは、必ずしも、秀吉の子ではなくともよかったのである。それが、絶対に秘密裡になされるならば、これは、考えてもよいことだったのである。余齢まさに蹙《せま》らんとしている秀吉である。もう一度、わが子と信じる子を抱けるならば、その喜悦は、いかばかりであろう。  女は完全な秘密が保たれる場合、いかなるおそろしい、大胆不敵な行為も辞さない、とは千古不易《せんこふえき》のマクシムである。 「そ、そなたは、何者じゃ?」  淀君は、おのが湿った体内へ、男の太指が、忍び入るにまかせ乍ら、顫《ふる》え声で、訊ねた。 「それがしの名を知るのは、無益でござろう。ただ、太閤に代って、太閤の子をつくって進ぜる男とだけ思い知られい」 「報酬は、なにが、所望じゃ?」 「なにも、欲しはつかまつらぬ。天下の美女に、子を宿させる情感のみ——」 「………」  淀君は、そっと、両手で蘭干《らんかん》を掴むと目蓋を閉じた。  下肢は、衣裳の下で、拡げさせられた。  秀吉が、名護屋に帰って来たのは、秋の末であった。淀君は、はずかしげに、懐妊のことを告げた。秀吉の悦びは、大変なものであった。  いま——。  秀吉は、六歳になった秀頼をあいてに、天下の絶対権力者たることも忘れて、手拍子を打ち乍ら、鄙歌《ひなうた》をうたっている。秀頼が、わが子であることを、夢にも疑っては居らぬ。 「淀殿。まことに、めでたい、のどかな景色でござる」  七年前と同じように、打掛の蔭にひそんだ秀頼のまことの父親は、囁く——。 「それがしと貴女との間に生れた伜めが、次の天下人たることを披露されている宴と申してよかろう」 「な、なにゆえに、いま頃になって、あ、あらわれたのじゃ!」  淀君は、必死に、顔に笑みを浮べ乍ら、くちびるを動かさぬようにして、訊ねた。 「太閤の顔色を、よく観られい。もはや、死魔の翳《かげ》がさして居り申す。早ければ夏のうち、おそくとも、秋の末までには、この世に別れを告げることになろう」 「………」  淀君は、慄然《りつぜん》となった。 「おひろいが、いよいよ、関白となり、太閤となる。されば、このあたりで、おひろいの実父の名を、貴女に、お知らせ申しておこうと思いたって、参上いたした。それがしの名は、兵法者塚原彦四郎忠光」 「………」  秀吉が、秀頼の手を引いて、こちらへ向って来た。  と——。  秀頼が、母の姿をみとめて、秀吉の手をふりきって、駆け出して来た。  淀君の股間から、すっと、手が抜きとられた。 「おひろいが、天下人の盛儀を挙行される日に、三度び参上。さらば——」  その声をのこして、打掛の中から、彦四郎は、忽然として、消え去った。  淀君は、駆け寄って来た秀頼を、抱きあげると、頬ずりをし乍ら、誰へきかせるともなく、 「おひろい様は、太閤殿下のお子! ほほほ……」  と、甲高《かんだか》い声をたてて、笑った。  五  さらに、十年の歳月が、流れすぎた。  豊臣秀頼は、元服し、凛々《りり》しい若武者になった。  元服の日、大阪城内で、盛大な祝賀の宴が催され、豊臣恩顧の大名たちが、綺羅《きら》星のごとく並んだ。加藤清正、堀尾吉晴、池田輝政、前田利長、浅野季長ら……。  その盛儀のさなか、淀君は、ふっと、ひとつの不安にとらわれた。  秀頼が天下人の盛儀を挙行される日に、三度び参上する、と告げた塚原彦四郎の言葉が甦《よみがえ》ったからである。  淀君は、自分の打掛の蔭に、いつの間にか、その男が忍び入って来るような微かな戦慄に襲われて、思わず、頭《こうべ》をまわしたものだった。しかし、彦四郎は、その日は、出現しなかった。  それから、一月後、城内の梅林で、梅見の宴が開かれた時であった。  淀君は、ふと、あることに気がついた。  千姫を見る秀頼の眸子《ひとみ》が、少年のものではなく、良人のものであり、見かえす千姫の表情もまた、少女のものではなく、良人の愛情を知った妻のそれであることに、淀君は、敏感にも、気がついた。  秀頼と千姫の祝言が行なわれたのは、秀頼十一歳、千姫七歳の時であった。しかし、淀君は、千姫を、秀頼の妻として待遇しなかった。徳川家からの人質としてあつかって来た。秀頼と千姫を一緒に住わせることもしなかったし、二人が顔を合せる席には、必ず淀君がいた。  秀頼と千姫が、睦み合うことは、淀君には、考えられなかった。  淀君は、二人を永久に、事実上の夫婦にはすまい、と決意していたのである。  ——何ごとであろう!  淀君は、かっとなった。  母である自分の知らぬ間に、秀頼と千姫が、夫婦の交りをしていようとは!  淀君は、宵に入って、秀頼のところへ行くと、険しい気色で、挨拶ぬきに、いきなり、 「若君は、この母にことわりもなく、千姫の館に忍ばれたのか?」  と、問うた。  秀頼は、さっと当惑《とうわく》の表情になって、俯向《うつむ》いた。 「千姫は、なるほど、若君の妻じゃ。良人が妻と、ひとつ褥《しとね》にやすむのに、なんのふしぎもない。したれど、千姫は、徳川家の者じゃ。内府の孫じゃ。いわば、豊臣家の敵の家の女じゃ。わたしは、千姫を、人質としか、思うて居らぬ。この母の気持は、若君も、ようご存じのはずじゃ。……若君が、この母の気持をふみにじって、千姫の館へ忍んだのは、ゆるせませぬ。なにゆえに、そのような気持になりやったか、きかせてもらいましょうぞ?」  つめ寄られて、秀頼は、正直に告白するよりほかにない、と肚《はら》をきめたようであった。  秀頼の告白は、淀君を、愕然とさせた。  元服した夜——更けてから、秀頼は、忍び装束の怪しい人物にゆり起されて、千姫と夫婦のちぎりをするように、とすすめられたのであった。 「それがしは、故太閤殿下の影武者をつとめた塚原彦四郎忠光と申します」  そう名のってから、秀頼が千姫と事実上の夫婦になって、可愛い嬰児《えいじ》をもうけることが、豊臣家を安泰に置く唯一の方法だ、と諄々《じゅんじゅん》として説いたのであった。  秀頼は、その人物にみちびかれて、千姫の館に行った。  彦四郎は、十五歳の少年と十一歳の少女が、はじめて夫婦の交りをするのを、凡帳の蔭から見とどけておいて、何処《いずこ》ともなく立去った、という。  淀君は、秀頼の告白をきいて、かえす言葉がなかった。胸中では、彦四郎に対する憤《いきどお》りが、渦巻いた。  彦四郎は、約束通り、その日に、出現していたのである。  淀君は、翌日、急使を通して、九度山麓から、真田左衛門佐幸村を呼んだ。 「兵法者塚原彦四郎忠光なる者をさがし出して、討ち果してくれまするよう——」  そう命じた。  幸村は、その理由を訊ねようとしたが、淀君のきびしい気色を看て、無駄だとさとり、黙って退出した。  大阪城を出た幸村は、編笠に顔をつつんで、春光うららかな街なかをひろいはじめた。  猿飛佐助は、一間さがって、のこのこと跟《つ》いて行く。 「佐助——」  かなり長い沈黙ののち、幸村は、呼んだ。 「はい。なにか——?」 「塚原彦四郎という兵法者の名をきいたことがあるか?」 「一向に——」 「さがし出して、討ちとれ、との厳命じゃ」 「はあ……」 「若君にお会いして、塚原彦四郎の仕業《しわざ》をうかがった。淀様の立腹された次第は、判る。塚原彦四郎は、若君と千姫君を、まことの夫婦《めおと》にする月下氷人をつとめたのだ。淀様にとっては、腹に据えかねる仕儀であろう。訝《いぶか》しいのは、塚原彦四郎が、何故に、そのような役をつとめたかだ。故太閤の影武者に、塚原彦四郎などと申す者は居らなんだ」 「………」 「佐助、塚原彦四郎をさがし出して、わしの前につれて参れ」  六  瓶原《みかのはら》、という。  狛里《こまざと》の東一里、泉河の北岸にある。布当川《ぬのあてがわ》は、和束山中から発して瓶原に至って、泉河に合する。木津から川に沿うて、笠置山に行く道の左方にあたっていて、北に海住山寺の山を負い、南は木津川に臨《のぞ》んでいた。  当時、ここに、北国へ抜ける間道が通じていて、人目をはばかる任務をおびた武士など、夜陰に乗じて、駆け通した、という。また盗賊なども、往来して、物騒だという取沙汰もあった。  いにしえは、三香原《みかのはら》と呼び、元明帝以来、離宮が置かれ、聖武帝が恭仁京《くにのみやこ》造営の時には、大極殿が築かれていた、というが、いまは、旧地たることを推すのみで、殿舎の跡は判然としない。  ある日の午頃、猿飛佐助は、この瓶原に出る切通しの坂を、下って行った。  いかにも間道らしく、人一人やっと通れるくらいの狭い切通しであった。  それを抜けると、目がさめるような美しい景色が、ひらけた。いちめんの桃畑で、いまが、花盛りだったのである。  塚原彦四郎なる兵法者が、この桃畑の主であることを、佐助は、苦心してつきとめて、やって来たのである。  幸村から、おそらく塚原卜伝の血筋をひく兵法者であろう、と云われていたので、佐助も、要心して、忍者槍を肩にしていた。  芳香の満ちた桃畑へふみ入った佐助は、十歩もあゆまぬうちに、ぴたっと、足をとめた。  とある一樹の根かたに、蹲《うずくま》っている人影をみとめたのである。  筒袖《つつそで》に、|たっつけ《ヽヽヽ》をはき、鼠色の布で頬かむりした桃番人らしい姿であったが、佐助の目を、ごまかすわけにはいかなかった。  佐助は、忍者槍を、かるく、とんと、地に立てた。  対手は、じろりと、こちらを視た。右眼は無慚《むざん》につぶれていたが、左眼には、異常な強い光があった。 「塚原彦四郎殿に物申す。真田左衛門佐幸村の家来猿飛佐助、主命によって、罷《まか》り越し申した。口上きかれい」 「きかんでも、わかって居る」  彦四郎は、やおら立ち上ると、 「その槍で、わしの胸を刺すために参ったのであろう」 「いいや——」  佐助は、かぶりを振った。 「わが主《あるじ》は、納得いかぬ暗殺はつかまつらぬ。お手前が、先般の大阪城での振舞いは、いかなる料簡でなされしか、宰相じきじきにおうかがい致したいそうな」 「もし、いやだと申せば、あらためて、殺しに参るのか」  彦四郎は、薄ら笑った。 「もどって幸村殿につたえてもらおう。塚原彦四郎は、狂気の性情をもって生れた。そのために、実父塚原卜伝に真剣の勝負を挑み、斯かる化物じみた人相になり果てた。……年を経《ふ》るにしたがって、おのが性情を忌《い》むにつけて、人に慈悲をほどこそうと心掛けるようになった。大阪城に忍び入っての振舞いも、それである。また、この里にかくれ住むのも、それだ。この間道を通って京に入ろうとする凶悪な盗賊のたぐいは、切通し坂で、ことごとく、わしが斬りすてている」 「………」 「のぞみとあれば、その証拠を示そうか。もう半刻も待つと、女衒《ぜげん》めが、買い集めた娘をつれて、やって参る」  彦四郎が、云った通りであった。  切通し坂を、一列になって、七八人の田舎娘が、とぼとぼと、下って来た。しんがりの駕籠の中では、よく肥えた人買いが、心地よさそうに、居ねむっていた。  彦四郎は、佐助から忍者槍を借りると、つと、坂下へ立った。  先頭の娘は隻眼に凝視《ぎょうし》されて、びくっと足をとめた。 「娘たち、助けてやるゆえ、足を開けい」  彦四郎は、そう命じた。  この時、駕籠|舁《か》きたちが、駕籠を地べたへ置いて、身を躱《かわ》した。駕籠舁きたちは、彦四郎がやとっていたのである。 「開けいっ!」  彦四郎の気合のかかった一喝に、娘たちは、反射的に、一斉に、脚をひろげた。  駕籠の中の人買いが、はっと目ざめて、「なんだ?」と呶鳴った。  瞬間——、彦四郎の右手から、忍者槍が放たれた。  矢の迅《はや》さで、それは飛び、七人の娘たちの股間《こかん》を掠《かす》めた。 「げえっ!」  絶鳴は、駕籠の中から迸《ほとばし》った。  七つの股をくぐった槍は、ふかぶかと、人買いの胸いたをつらぬいたのである。  彦四郎は、踵《きびす》をまわして、桃畑へもどり乍ら、佐助に云った。 「来る二十日、たぶん、幸村殿にお目にかかるであろう。これは、約束できることだ。その旨、よしなに——」  七  その月の二十日——それは、秀頼が上洛する日にあたっていた。  それまでに、徳川家康は、秀頼に対して、しばしば、上洛を促していた。  千姫が大阪城へ入輿《にゅうよ》した時。秀頼が右大臣に任ぜられた時。徳川秀忠が、江戸より上洛して、父家康のあとを襲って、征夷大将軍になった時。  しかし、秀頼は、ただの一度も、上洛しなかった。淀君が、断乎として、斥《しりぞ》けたのである。  秀頼が上洛すれば、必ず、途中で襲撃されるか、あるいは、二条城において、毒を盛られるに相違ない、と淀君は、おそれたのである。  それに——。  徳川家がたとえ征夷大将軍職に就こうとも、豊臣家の臣ではないか。家康・秀忠が、秀頼に会いたければ、大阪へ来るべきであろう。  臣のぶんざいで、秀頼を呼びつけるとは、何事であろう。  淀君は、そう考え、口にもしたのであった。  しかし、いよいよ成人となった秀頼が、参内して、御礼を申上げるということは、絶対に必要であり、そのついでに、舅《しゅうと》である秀忠に会い、祖父にあたる家康に挨拶するのであれば、すこしも、豊臣家に傷はつくまい、と加藤清正、福島正則、浅野幸長らに説かれて、ついに、淀君は、しぶしぶ承諾したのであった。  その前日、片桐且元は、真田幸村を、ひそかにまねいて、 「どう考える?」  と、問うた。  幸村は、即座に、 「大御所(家康)に、奸策はありますまい。秀頼公を二条城にまねくのは、ただ、徳川家がもはや豊臣家の臣下ではないと、天下に知らしめる目的のみでありましょう」 「それならば、もはや、やむを得まい。秀頼公の御身につつがなければ——」 「いや、秀頼公の御身は、必ずしも、ご安泰とは申されませぬ」 「何と云われる?」  且元は、眉宇《びう》をひそめた。 「洛中洛外には、浪士数万があふれて居ります。これらの中に、あわよくば、功名手柄をたてて徳川家に随身せんとする野心の徒が、党を組んでいる様子が、うかがわれます。秀頼公上洛ときかば、これを襲って、御首級《みしるし》を挙《あ》げるならば、とひそかに企てる党もなきにしもあらず——」 「いかん! それでは、上洛は中止いたさねばならぬ」 「お待ちあれ。この真田幸村が、扈従《こじゅう》つかまつる限り、秀頼公の御身に、不逞《ふてい》の輩《やから》を、一歩も近づけはいたしませぬ」  幸村は、且元に、この危険については、加藤、福島、浅野の諸将らにも、告げないようにと、口どめした。  二十日払暁、秀頼は、騎馬二百をひきいて、大阪城を発ち、鳥羽から長さ十五間の河船で淀川を遡《さかのぼ》って、淀に到着した。  御供の行列は、騎馬で、淀堤、山崎街道と両川端を併行した。  幸村は、淀堤を、しんがりから、進んだ。  いよいよ、御座船が、淀に着こうとした頃合であった。  野を掠《かす》めて、幸村のところへ、猿飛佐助が、疾駆《しっく》して来た。行列の人々の目にとまらぬほどの、風の迅さであった。 「お主《しゅう》様。やはり、不穏の徒党が待ち伏せて居ります。およそ百七八十騎——」 「うむ」  幸村は、眉宇《びう》を動かさずに、かるく頷いた。 「六文銭組に、合図いたしましょうか?」  佐助は、云った。  六文銭組とは、幸村が、九度山麓で閑居しているとみせかけ、表面では真田紐を作らせ乍ら、かげでは、おのが手足として動かせるように訓練した一騎当千の武者たちを謂《い》う。その頭数は、すでに百騎をかぞえていた。  幸村は、その百騎を、農夫や商人に身をやつさせて、蔭の護衛陣としていたのである。 「待て、動いてはならぬ。その徒党にむかって、孤剣をかざして、斬り込む者がある筈。六文銭組が動くのは、渠《かれ》が働きのあとのことだ」  佐助は、かしこまって、その場から消え去った。  すでに、その時、一里南方の、姿不見《すがたみず》山と称《よ》ばれる小丘陵から、湧きあがったごとく、駒を揃えた浪士党は、春草を蹴散らして、鵬翼《ほうよく》陣をととのえて、津波のように、馳せ降りていた。  萌葱《もえぎ》色の野を掠《かす》めて、五町を疾駆したとみるや、岬のように、ひと延びした丘陵の裾を掩《おお》う松林の中へ、鵬翼をたたんで、一列に吸い込まれるように、入ろうとした。  孤剣をふるう者は、その木立の中に、ひそんでいた。先頭の一騎が、高くいなないて、棹《さお》立った。  その前脚の一本が、刎《は》ねとんだ。  おもてを包んだ黒衣の剣士は、旋風《つむじ》に似た凄じい勢いで、騎馬列の脇を、奔《はし》った。  奔り去ったあとには、ことごとくの騎馬が棹立ち、その前脚の一本は、枯枝のように両断されていた。 「おのれっ!」  前脚を断たれる前に、棹立たせて、蹄《ひづめ》にかけようとした者が、ようやく、魔神にひとしい迅業《はやわざ》を、はばむことに成功したが、おのれ自身は、のけぞったところを、胴を薙《な》ぎはらわれていた。  次の騎馬から、乗手は、左右へ、飛び降りて、抜刀した。  噴き飛ぶ血煙りが、駒を狂わせ、それが、孤剣をふるう者に、利を与えた。  狂奔する馬を巧みに利用して、その速影《はやかげ》は、文字通り神出鬼没であった。  誰一人、その姿を、闘う構えにおいて、とらえるいとまはなかった。  ある者は、馬腹の下から突き出された切っ先に胸いたをつらぬかれたし、ある者は、ひらと馬上から躍って来た白刃に、真っ向|唐竹割《からたけわ》りにされた。  険しい斜面と松林の間の、多勢にとっては、味方の太刀が、かえって邪魔になる狭路であった。  斬られてのけぞる味方にぶっつかって、よろめく隙に、おのれも斬られる者。身を躱《かわ》さんとして、奔馬に蹴られる者。斬りつけそこねて、馬腹を刺して狼狽《ろうばい》する者。再び馬にとび乗って頭上から、襲わんとして、はねとばされる者。  またたくうちに、死者と負傷者は、夥《おびただ》しい数をかぞえた。  血の旋風は、一瞬も歇《や》むことなく、白刃の林の中を、突進した。  そして、その阿修羅の闘いは、一人のこらず斃《たお》すまで、つづくかとさえ思われた。  しかし——。  人間の力には、やはり限りがあった。  血みどろな跳躍の——その手の動きが、敵方の目に、はっきりと、とらえられるようになった。ふれれば、一太刀で斬った剣も、やがて、むなしく、宙を舞うようになった。 「ひるんだぞ!」 「いまぞっ!」  敵方は、闘姿の一瞬の停止を、ゆるさなくなり、四方から、斬りつけた。  その刹那のみ、剣士は、凄じい魔技をふるって、白刃の輪を、斬り放った。  白刃の輪が、拡っては縮まり、またひらいては、しぼられる攻防が、いくたびかくりかえされた果てに、ついに、剣士は、孤剣を杖にして、立ちどまった。  幸村が、六文銭組に、下知を下したのは、その時であった。  斜面に、林に——草が、樹が、ことごとく動くがごとく、真田百騎は、忽然として躍り立って、浪士党へ、殺到した。  幸村が、戦いの終った修羅場へ、しずかな足どりで、歩み入って来た時、孤剣をもって四十数騎を仆した人物は、魂うせたからだを、地上に横たえていた。  幸村は、佐助に命じて、おもてを包んだ布をとらせた。  両耳は無く、一眼はつぶれていた。  しかし、幸村は、そのおだやかな死顔を一瞥して、ふかく頷いた。  その貌《かお》は、何事も知らずに二条城へ向う秀頼と、あまりにもよく似かようていたのである。   岩見重太郎  一 「おいっ——瘤《こぶ》!」  小川に沿うた畷《なわて》で、桑の葉を摘んでいた猿飛佐助は、いきなり、そう呼ばれて、首をまわした。  大層な巨漢《きょかん》が歩いて来ることには、気がついていたが、間近に眺めて、  ——これは、化物に近い。  と思った。  七尺を超《こ》えていよう。その身丈《みのたけ》にふさわしい逞《たくま》しい体躯《たいく》であった。髯《ひげ》も、もの凄かった。襤褸《ぼろ》に近い衣服をまとっていたが、腰に帯びた三尺あまりの長剣も、右手に掴んだ槍も、作りは立派であった。猶《なお》、背中にも、一振り負うていた。  奇妙だったのは、双《そう》の耳朶《みみたぶ》に、孔をあけて、金の鎖で、琥珀《こはく》の曲玉《まがたま》をぶらさげていることであった。炯炯《けいけい》たる眼光と、むらがる長髯《ちょうぜん》の面貌《めんぼう》には、およそふさわしくない装飾であった。 「真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》殿の居宅《きょたく》は、何処《どこ》だ?」  破《わ》れ鐘《がね》の声とは、こういうのを指すのであろう。 「あの丘のむこうでござる」 「案内せい」 「なんの御用でござろう?」 「なんだと?」  はったと、睨《にら》みつけた。 「日本一の豪傑《ごうけつ》・岩見重太郎将兼《いわみじゅうたろうまさかね》が、はるばる、臥竜《がりょう》をたずねて参ったのだ。おのずと、目的は知れるわ。小者の分際《ぶんざい》で、胡散《うさん》顔をいたすとは、何事ぞ。黙って、案内せい!」  佐助は、桑籠を背負うと、先に立った。  岩見重太郎は、のしのしと、地ひびきさせて、跟《つ》いて来ていたが、 「山も木も川も、まるで小童《こわっぱ》の遊び庭のように、小まいではないか」 「一名を、睡猫《すいびょう》の里と申す」 「左衛門佐殿も、こんなところに隠棲《いんせい》して居るうちに、身も心も、ナマクラになり果てたのではないか」  云ったとたんに、岩見重太郎は、大きな双眸《そうぼう》をさらに大きく瞠《みひら》いて、ごくっと生唾《なまつば》をのみ込んだ。  不意に、佐助が背負うた桑籠の中から、にょきっと、蝮《まむし》が現れて、岩見重太郎めがけて、べろべろと、赤い舌を出してみせたのである。 「こ、瘤!」 「なんでござるな?」  佐助の声音は、のんびりしていた。 「籠に、蝮が、まぎれ込んで居るぞ」 「ご面倒|乍《なが》ら、つまんで、すてて下され」 「なにを申す! 貴様、はよう、籠をすてい!」  すると、佐助は、首もまわさずに、片腕をうしろへのばすと、無造作に、毒蛇の鎌首を、ひょいとつまんで、くさむらへ投げた。 「ふうっ!」  岩見重太郎は、吐息《といき》した。 「お主は、左衛門佐殿の家臣か?」 「猿飛佐助と申す者でござる」 「左衛門佐殿は、お主のような家臣を、幾名ぐらい、やしなって居られるぞ?」 「わしは、末座に坐る家来でござる。あるじ様が、膝を丁《ちょう》と叩きめされば、即座に応と受けて参集する家来が、まず、ざっと、二千九百名あまり——」  佐助としては、珍しく、ホラをふいた。 「孰《いず》れも一騎当千だな?」 「皆の衆は、わしを、真田六文銭組のうちで、一番臆病者よ、と嗤《わら》い申す」  岩見重太郎は、かぶりを振った。  二  幸村は、館から遠くはなれた草庵の茶亭で、炉《ろ》に香木を焚いて、点前《てまえ》をしていた。 「あるじ様。岩見重太郎と申す日本一の豪傑をつれて参じましたが、いかが、いたしましょうか?」  華灯窓のむこうで、佐助の声がした。追い払え、という返辞があれば、その手段をとらねばなるまい、という気配であった。 「どのような風体だな?」 「七尺余もございましょうか、髯だらけで、むさくるしゅう、旅塵《りょじん》と風と垢《あか》にまみれて居ります。人柄は、単純で素朴と存じられますが、ひどう夜郎自大《やろうじだい》で、膂力《りょりょく》が自慢げにみえます」  幸村は、ちょっと考えていたが、「通せ」と命じた。  岩見重太郎は、炉をへだてて、巌石のようにどっかと坐ると、二千九百名の強者《つわもの》にヒケをとらぬところを示そうという気負いをみなぎらせて、挨拶した。  幸村は、澄んだ眸子《ひとみ》を、じっと当てていたが、 「風雲をのぞんで、ここをたずねられたかな?」  と問うた。 「左様。われに与えられた関羽張飛の力を、当代の孔明の智謀をかりて、存分に振るわんと存じて、参上つかまつった」 「どれほどの胆力膂力《たんりょくりょりょく》がおありか、この場でお見せ願おうか」  宰相は、所望した。 「さらば!」  岩見重太郎は、見まわしたが、すぐに、 「うむ!」と頷いて、炉の上に、自在|鈎《かぎ》で、釣りさげられた大茶釜へ、松の幹のような二本の猿臂《えんび》をのばした。  微かな沸音《わきおと》をたてていた大茶釜を、岩見重太郎は、巨《おお》きな双の掌の上にのせて、自在鈎から、はずすと、炉縁《ろぶち》へ置いた。尋常に鍛えた掌では、到底のせることは叶わず、当然、ひどい火傷を蒙《こうむ》るところであろう。  岩見重太郎は、けろりとして、次に、自在鈎を把《と》った。  槍の柄よりもやや太いくらいの鉄鈎は、さきが、蛭環《ひるわ》といい、茶釜を掛けるために、曲っている。岩見重太郎は、それへ、右手の親指をかけるや、 「むっ!」  と、渾身《こんしん》の力を罩《こ》めた。  蛭環は、飴のように、まっすぐに、延びた。  それをまた、岩見重太郎は、元通りに曲げ戻すと、天井から釣りさげ、さらに、茶釜を両手にのせて、掛けた。  ——どうだ?  とばかり得意げな様子に対して、幸村は、一言も感嘆の言葉をむくいなかった。  あいかわらず、もの静かな表情で、 「何処から参られた?」  と、訊ねた。 「伊予灘《いよなだ》にある八幡島より参り申した」  岩見重太郎は、胸を張り、肩をそびやかすと、そのむかし、安芸《あき》、周防《すおう》、備後《びんご》、伊予はもとより、豊前《ぶぜん》、壱岐《いき》、対馬《つしま》の海賊を、ことごとく、おのが八幡大|菩薩《ぼさつ》の旗の下にしたがえて、朝鮮及び支那の沿岸は申すにおよばず、台湾より南洋諸島まで、縦横無尽の跳梁《ちょうりょう》をやってのけた海賊大将藤原朝臣河野|刑部大輔教通《ぎょうぶたゆうのりみち》こそ、わが祖宗である、とうそぶいた。 「伊予海賊の頭領の裔《すえ》といわれるか」  幸村は、微笑した。  伊予海賊の名は、古来史上に著名である。  伊予の国は、前方に瀬戸内海をひかえ、東部に播磨灘《はりまなだ》をへだててはるかに武庫《むこ》の浦に対し、西部は豊後永道によって、九州の地に接する。瀬戸内海の航路の一|要衝《ようしょう》である。  伊予の前面には、大島、来島《くるしま》、因《いん》ノ島、屋代島、忽那島、日振島など、大小無数の島嶼《とうしょ》が散在している。そのために、潮流のはげしい個所が、非常に多い。瀬戸内海を航行するには、水理に精通していなければ、この水域を通過することは、不可能であった。海賊が、ここに発達したのは、当然であろう。  伊予海賊は、すでに、奈良朝の頃に、出現していた。平安の時代に入って、藤原|純友《すみとも》が、伊予の掾《じょう》となって下向し、海賊|鎮圧《ちんあつ》の任に就き乍ら、官を免ぜられるや、身をひるがえして、海賊の群に投ずるにおよんで、その名は、高まった。  当時、伊予海賊には、伊予本土に拠《よ》る越智《おち》氏(のちの河野氏)の部下の水師——その部将には、村上氏があり、村上水軍をつくった——および忽那島を中心とする忽那氏の水師、北宇和島の日振島を本拠とする佐伯氏の水師などが、いた。  藤原純友は、これらの水師を統合し、総帥となるや、兵船千有余艘を艤装して、叛旗《はんき》をひるがえし、豊後水道を往来する船舶を、片はしから襲撃し、官物私財を奪いとった。  時あたかも、東国下総の猿島《さしま》に於いては、平将門《たいらのまさかど》が、兵を挙げていた。  藤原純友は、朝臣の周章狼狽の好機をのがさず、安芸、周防の両国は勿論のこと、驥足《きそく》をのばして、讃岐を席巻《せっけん》、その国府を焼きはらった。  備前介《びぜんのすけ》(国の次官)であった藤原子高は、この海の叛乱の凄じさを、朝廷へ報告すべく、陸路を上京しようとした。純友は、輩下を趨《はし》らせて、子高を、摂津《せっつ》の須岐駅に襲って、惨殺せしめた。この報は、東国に於ける平将門暴虐の報と同時にきこえて来たので、藤原一門は、不安と恐怖におののいた。  純友が敗れて、捕えられ、獄死の末路をつげたのは、伊予越智郡の押領使《おうりょうし》であった越智|好方《よしかた》と、新居郡大島に拠っていた村上一族が、離反し、勅命を蒙って、逆に純友討伐に加わったからであった。  純友が滅ぶや、河野、村上の両海賊は、その勢力をみるみる増大した。就中《なかんずく》、河野氏は、古代からの豪族として、伊予の国全土に隠然たる実権を布いていたので、源平の時代には、伊予の海賊たちの殆どを麾下《きか》にしてしまった。  源頼朝が挙兵にあたっては、河野氏の頭領通清、その長子通信に援助の密書を送っている。  源氏の白旗に味方した河野氏は、平家が滅亡するや、伊予の国道後七郡の守護職に任じた。  元寇《げんこう》の戦いにおける、河野六郎|通有《みちあり》の奮戦は、あまりにも有名である。  元の大軍が、舳艫相含《じくろあいふく》んで、博多湾頭|志賀《しか》島附近に出現するや、河野通有は、二|艘《そう》の軽軻《けいか》を率《ひき》いて、夜襲し、乱射して来る石弩《せきど》をものともせず、おのが船の帆柱を切って、敵艦に架《か》け、一族郎党とともに踊り入って、敵将を虜にする功をたてた。  河野氏が、和冠《わこう》となって、海のむこうの国々を侵しはじめたのは、応仁《おうにん》の大乱の後、温泉郡の湯築城主であった河野教通が、  ——日本狭し!  と、決意してからであった。  和寇となった、河野教通の率いる水軍の活躍の凄じさは、朝鮮高麗朝の滅亡の原因となったのでも、知れる。  この巨漢は、その河野教通の裔だという。  河野氏は、豊臣秀吉が天下を取るにおよんで、勢力を喪い、代って、統率者として、来島通之《くるしまみちゆき》が擡頭《たいとう》し、通之が朝鮮役で、討死するにおよんで、伊予海賊は、ばらばらになってしまったのである。  いま——。  徳川の天下となって、伊予の海賊らは、その牙を折られて、しだいに、ただの船乗りになりつつある、と幸村は、きいていた。  岩見重太郎は、伊予海賊を再び昔日《せきじつ》の剽悍無比《ひょうかんむひ》の水軍にかえす野望を抱いているのであった。  瀬戸内海に、一人の海賊の棲息《せいそく》も許さず、と公令を発した徳川家康に対して、憤怒《ふんぬ》し、単身、八幡島(興居《おご》島)を出て来て、真田幸村が徳川家康を討つ大合戦に加わり、あわよくば、数十万石の大名となって、帰島せんと夢みているのであった。  岩見重太郎は、なにを根拠にその信念を抱いたか、真田幸村が必ず徳川家康を滅すと、かたく思い込んでいた。  三 「岩見重太郎将兼、七重の膝を八重に曲げてお願いつかまつる。何卒《なにとぞ》、真田一党にお加え下されい」  畳に両手をつかえて、蝦蟇《がま》のように、平伏する巨漢を、じっと見|戍《まも》った幸村は、しかし、それにはすぐ返辞を与えず、 「佐助——」  と、呼んだ。  打てば響く迅《はや》さで、佐助が、入って来た。 「これより直ちに、伏見城へ奔《はし》って、徳川家が、鎌倉の由比ケ浜で建造している軍船が、竣工したかどうか、さぐって参れ」 「かしこまりました」  佐助は、風のように出て行った。  幸村は、岩見重太郎に、館の方に行って、どこの部屋にでも自由に休息するがよい、とすすめた。  ——やはり、わが目に狂いはなかったぞ。真田左衛門佐こそ、徳川家康を斃《たお》す唯一の智将よ!  幸村の犯しがたい品格と態度に大いに満足して、岩見重太郎は、茶亭を出た。  しかし、館に入った岩見重太郎は、いささか拍子ぬけをおぼえなければならなかった。  真田一族の館だから、さぞかし、堂々たる構えであろう、と想像していたのが、まずアテがはずれた。濠もめぐらしていなければ、築地《ついじ》もなく、小さな草葺《くさぶ》きの門があるだけで、それも、扉のひとつは、柱からはずれかかって傾いていた。庭は広かったが、梅林になって居り、人影もなかった。  玄関に立って、案内を乞うたが誰も出て来なかった。  背後を、手拭いで頬かむりした下僕ふうの男が行き過ぎようとしたので、呼びとめて、問うと、 「勝手に、お入りめされ」  と、云いすてておいて、すたすたと、裏手へまわって行ってしまった。 「猿飛佐助め、二千九百名もの強者が居る、などと、ほざき居って——、チト眉に唾せねばならんわい」  重太郎は、廊下板をどすどすと鳴らして、奥へ通り乍ら、左右の檜戸《ひのきど》を次ぎつぎと開けてみた。  どの部屋も、調度らしいものは何も置かれて居らず、ただ、塵ひとつとどめずに、綺麗に掃除されていた。  やがて、重太郎は、百畳敷きの広間に、たった一人、青頭の男が、手枕で寝そべっているのを、見出した。 「御免——。造作《ぞうさ》に相成る」  重太郎は、呶鳴った。  しかし、坊主は、微動もしなかった。 「つんぼか」  殊更に大声で云って、重太郎は、床柱を背にして、どっかと胡坐《あぐら》をかいた。そして、坊主が、ちゃんと、両眼をひらいて、庭を眺めているのを、みとめた。 「おい、法師!」  重太郎は、声をかけた。 「猿飛佐助と申す傴僂《せむし》めは、この館に、二千九百名の一騎当千の家来が住んで居ると申したが、まことか?」  すると、坊主は、視線を庭へ投げたまま、 「裏の工場で、紐を作っている」  と、こたえた。 「紐だと?」 「安うて、丈夫で、便利なので、注文に応じきれぬ忙しさだ。お主も、明日から、紐つくりだろう」 「なにを、莫迦《ばか》くさい。そういう貴様は、なぜ、なまけて居るのだ?」 「働くのが、きらいだからだ」 「横着者め!」  重太郎は、いかにもひねくれ者らしい坊主を、じろじろ眺めていたが、ふと、  ——試してやろうか。  という気になった。 「おい、おれは、伊予海賊の頭領河野教通が末孫で、岩見重太郎将兼だ。貴様、この館に居候しているのであれば、腕におぼえがあろう。一手、たち合うか」  坊主は、はじめて、顔を動かして、重太郎を視《み》た。  とたんに、重太郎は、失望した。  ——こやつ、色子《いろこ》あがりだ。  まさしく、重太郎が、そう受けとったのは無理もない、薄化粧でもしているのではないかと疑いたくなるくらい端麗な公卿面《くげづら》をしていたのである。  坊主は、三好清海入道《みよしせいかいにゅうどう》であった。  やおら起き上った清海は、けだるげに背のびしてから、 「一日中、寝ているのにも、あきた。私闘は止められているが、ひとつ、腹ごなしに、やるか」  と云った。 「よしっ! 坊主なら、薙刀《なぎなた》か。おもてへ出い」  重太郎は、のっしと立ち上った。  場所は、門前からすこし下った空地が、えらばれた。もとは、いにしえの河が涸《か》れて磧《かわら》になり、そして松林になっていたのが、松喰虫に襲われて、全滅したらしく、大半は伐採《ばっさい》され、ところどころに、小振りが立ち枯れていた。  伐り株に足をとられぬように要心さえすれば、ここは、野試合に絶対の場所であった。いちめんの白砂だったからである。  清海入道は、例によって、刃物の一本歯を縦につけた高下駄をはき、刃渡り二尺七寸の大薙刀を、大上段にかざした。  重太郎は、腰に帯びて来た三尺の剣と、背負うて来た三尺四五寸はあろう陣太刀の二振りを、左右へまっすぐに延ばした両手から、斜めに挙げて、切っ先を、空中高く交叉させていた。五十人力と誇る膂力をぞんぶんに発揮して、二刀を、水車のように旋回させる戦法とみえた。  試合といっても、審判者はいないのである。孰《いず》れかが仆れて、はじめて罷《や》む闘いであった。  清海入道は、あらかじめ、おのれの高下駄が、凶器であることを、教えておいた。曾《かつ》て、伊藤一刀斎と闘った際、流石は天下にきこえた兵法の達人であった一刀斎は、この高下駄ふたつの刃を、鞘《さや》に噛ませておいて、大薙刀を鐔《つば》もとから両断する迅業《はやわざ》を、一動作をもってしてみせたものであった。  岩見重太郎は、豪傑ではあるが、兵法者ではない。そこで、清海入道は、おのれには、この異常の凶器があるが、それでもよいか、とことわったのである。 「成程。履《は》きものを武器にしたとは、考えたものよ。なんの、岩見重太郎将兼には、お主の両脚を、麻幹《おがら》のように刎《は》ねとばしてくれる長剣があるわい」  平然として、重太郎は、うそぶいたことである。  二間の距離を置いて、身構えた両者は、孰れも、兵法者ではなかった。汐合《しおあい》のきわまるまで、不動の対峙《たいじ》をつづける忍耐心など、持ってはいなかった。 「参るぞ!」  重太郎が叫び、 「応っ!」  と、清海がこたえた。  たちまち、重太郎の二剣が、凄い唸りをたてて、旋回しはじめた。  その迅さは、白刃を宙に溶《と》かしてしまい、ただ、わずかに、光の粉が散るのをみとめ得るばかりであった。  重太郎がもし尋常の体力の持主であれば、清海は、その消耗を待っていればよかった。消耗などということはあり得ないようにみえた。半刻や一刻で、その旋回がおとろえるとは、到底思えなかったし、かりにおとろえるとしても、それまで、いたずらに待っている清海ではなかった。 「う、むっ!」  白面を、さっと朱に染めた清海は、白砂を蹴って、五体を宙のものにした。  それは、いわば、清海の示威であった。  重太郎の頭上を翔《か》けて、一間の後方へ跳び降りた清海は、 「ふむ!」  と、唸《うな》った。  重太郎は、清海が飛び上るや、その速影《はやかげ》にむかって、白刃で描く円を(宛然《えんぜん》、マイクロ波を発射するレーダーのごとく)移行させたのである。  降り立った清海にむかって、なお、二剣は、ぶんまわっているのである。  これでは、清海は、いくたび、重太郎の頭上を躍り越えようと、徒労《とろう》であった。翔けつつ、大薙刀を振り下せば(旋盤にふれたアルミ板のように)、他愛なく、二尺七寸の大反刃《おおそりば》は、みじんに砕け散るに相違なかった。  ——よし!  清海は、一計を案じた。  重太郎は、きわめて単純な、|かけひき《ヽヽヽヽ》のない男とみた。臨機応変の意外の業も持っては居らぬ。  盲点を衝《つ》くに如《し》かず、と清海は、さとった。 「覚悟せい、岩見重太郎!」  殊更に、威丈高に、清海は、呶号した。 「おのれこそ、青坊主め!」  清海は、再び、おのが身を、宙に翔けあがらせた。  そして、恰度、重太郎のまえに来た刹那、 「勝ったぞ!」  と、一喝を噴《ふ》かせた。  それが呪文《じゅもん》のごとく、旋回する二剣が、直立して、ぴたっと停止した。  清海は、その二剣の切っ先の上へ、ひょいと蜻蛉《とんぼ》のようにとまった。  まさしく、清海の計略は、図にあたって、重太郎に、刀のぶんまわしを止めさせた。  と同時に、清海は、おのが重大な誤算にも、気づかなければならなかった。  清海は、おそろしく高い空中に立ってしまったのである。重太郎の巨躯《きょく》は七尺を超《こ》えて居り、それに、腕の長さと、剣の長さを加えた高さは、清海のからだを、小さくさえみせたくらいである。  その高処《たかみ》にとまって、大薙刀をふりかざした清海は、 「おっ!」  と、呻《うめ》いて、それなり、固着してしまった。  文字通り、おのが足下に在る重太郎を、大薙刀で、斬り様がなかった。まっすぐに、振り下したところでむなしく半円を描くだけで、大反刃は、重太郎の脚のあいだへ、もぐるだけであった。 「なにが、勝ったぞだ、青坊主め!」  その喚き声に、清海は、切っ先を噛んでしまった高下駄をぬぎすてて、思いきりの遠方へ、跳んだ。 「待てっ!」  重太郎は、高下駄をくっつけた二剣をかざして、猛然と迫った。  疾風を起した重太郎のもの凄い勢いに、微かな恐怖にかられつつ、清海は、こんどは、おのれが大薙刀をぶんまわす立場に置かれた。  勝負は、そこで、一挙に決した。  孰れも勝たなかった。ともに、敗れた、といえる。  というのは——。  ぶんまわした大薙刀が、あやまって立ち枯れの松の幹を両断するのと、重太郎が四十九貫の巨躯で、松の伐り株を踏みつけるのが、同時だった。瞬間、その幹の截《き》り口から、ぱっと白煙が迸《ほとばし》り出し、伐り株は、どすっと埋没《まいぼつ》して、濛《もう》っと黒煙を噴出させたのであった。  白煙は目をつぶし、黒煙は息をとめる猛毒であった。  いわば、重太郎と清海は、とんでもない危険な区域を、決闘場所にえらんだのである。いや、おそらくは、館の周辺のどこをえらんでも、巧妙きわまる仕掛けがほどこされてあるに相違なかった。  四  それから、六日後、岩見重太郎と猿飛佐助は、高野山麓北谷の九度山《くどさん》を、発足《ほっそく》した。  重太郎は、家禄を喪《うしな》った牢士が、その猛勇をいずれかの大名へ高く売りつけんとするもののごとき、異様に派手な伊達衣裳をまとうていた。佐助は、それの忠実な下僕のていで、三間柄の槍をかついでいた。幸村の指示によるものであった。  行先は、鎌倉。目的は、由比ヶ浜で建造された巨大な軍船を、烏有《うゆう》に帰せしむることであった。  佐助は、伏見城に忍び入って、江戸丸と名づけられたその軍船の構造図をぬすみとって来た。  それによれば、本邦はじまって以来の巨船であった。それまでの日本一の軍船といえば、朝鮮役に当って、豊臣秀吉が鳥羽城主|九鬼嘉隆《くきよしたか》に命じて造らせた日本丸であった。日本丸は、大きさ千五百石積み、長さ二十間、幅六間半、乗員百八十人、櫓百|梃立《ちょうだて》、といわれていた。  江戸丸は、さらに、それを上まわり、千八百石積み、長さ二十五間、幅八間、水主《かこ》二百五十人、櫓百二十梃立であった。  しかも、日本水軍が名将李舜臣に率いられた朝鮮水軍に苦しめられた経験によって、朝鮮軍船の|亀※《きこう》[#舟へん+工。船の意]をまねて、船体を鉄板で覆い、船内に水車を設け、司令塔である楼閣の後は、甲板を二層にし、大砲七門を備えつける、という豪壮なものであった。  幸村は、この構造図を眺めて、 「これが亀甲船と打櫂《だとう》船を数十艘も率いて、大阪沖に出現すれば、それだけでも、大阪城の士気は、なかば殺《そ》がれよう」  と、云った。  江戸丸だけでも、三千人の軍勢をはこんで来ることができる、とみた。  家康は、諸大名に、五百石以上の船の建造を禁止し乍ら、斯かる巨船をつくりあげたのである。  幸村は、撃ち焼かねばならぬ、と決意したのである。  伊予海賊である岩見重太郎こそ、その任務に、うってつけであった。  重太郎は、即座に応諾した。発足がおくれたのは、毒煙にやられて、目がかすんでいたからである。  伊勢路を闊歩《かっぽ》し乍ら、まだ、目脂《めやに》をためていたし、しきりに、咳をしていた。 「どうも、いかん!」  鳥羽に来た時は重太郎は、とうとう、唸るように云った。 「佐助、お主のくれる薬は、一向に利きめがないぞ」 「辛抱が足り申さぬ。鎌倉に着くまでには、すっかり癒《なお》るに相違ござらぬ」 「待って居れん。こう目脂や咳が出ずくめでは、うっとうしゅうて叶わん。佐助たのむ。おれが欲しいものを採って来てくれい」 「何ぞな?」 「若い女子《おなご》の白液《しろえき》じゃ」 「白液?」 「のみこみのわるい奴め。男に抱かれれば、自ずと催す|あれ《ヽヽ》だ」 「ふうん——あれが効くのか?」 「清水に溶かして洗えば目脂はぴたりととまるし、熱湯に入れて嚥《の》めば咳はけろりじゃ」 「一向にきいたこともないが……」 「お主ら山猿には、判らぬ。海賊は、印籠《いんろう》に詰めて行くわい。なろうことなら、肌が白うて、むっちりした若女房のやつがよいな。一人、てごろなのを拉《さら》って来てくれい」 「お主が、抱いて、放《た》れさせるのか?」 「そうだ。あたりまえではないか」  重太郎は、きまったことをきくな、という顔つきをした。 「それは、なるまい」  佐助は、珍しく、きびしい面持で、かぶりを振った。 「なぜだ?」 「お主も、いやしくも、真田一族に加わったからには、無辜《むこ》の女子を犯すような非道はゆるされぬ」 「黙れ! おれは、この|うっとう《ヽヽヽヽ》しさを早う癒したい一心だぞ」 「されば、犯さんでもよろしかろ」 「女子は、抱かれずに、白液を放らすか」 「いや。抱かれずとも、放らすかも知れぬ」 「虚仮《こけ》を申すな」 「おそれおののく女子を抱いたところで、放らしはすまい。それよりも、若くて美しいのを、納得させて、自らに、催させて、放らさせればよろしかろ」 「そんなことができるか」 「やってみることじゃ。わしに思案がある。要するに、お主は、目脂と咳を止める妙薬を手に入れればよろしいのであろ。な、そうであろ?」 「う、うむ。そ、そうじゃ」  重太郎は、しぶしぶ、頷いた。 「よし。わしにまかせて、おかれい」  五  鳥羽は五万石、九鬼長門守守隆《くきながとのかみもりたか》が城主である。  九鬼家は、守隆の父|嘉隆《よしたか》によって、その名を天下に震《ふる》った。  九鬼氏は、紀伊国熊野八庄司《きいのくにくまのはつしょうじ》の出である。九鬼は土地の名であった。南北朝の頃、九鬼隆良という武将が、志州に押しわたって、所々を討ちしたがえ、その曾孫《そうそん》泰隆にいたるや、志摩一円を征服したのみならず、伊勢へ侵入し、北畠家を扶《たす》けて、山田の神官と戦って二見七郷を譲られた、という。  七代九鬼嘉隆は、鳥羽城を築いて、はるか尾張の織田信長と款《かん》を通じ、信長が北畠家を征するに際して、南より攻めのぼって、織田勢を授けた。  志州は半島である。紀伊は大洋に望んでいる。ともに陸路の便がすくなく、海上の方が往来しやすかった。地勢は人をつくる。九鬼嘉隆、激浪怒涛《げきろうどとう》の間に出没して眼中死生を知らぬ漁夫たちを手なずけて、水軍を組織し、これを率いて、おそるべき活躍をしたのである。  天正六年に、織田信長が摂州石山を攻めた時には、大小の兵船を以て、紀伊の熊野浦より押しまわし、雑賀《さいが》の兵船を奪いとり、木津浦では、西国の兵船六百余艘の敵を破って、四国九州より大阪をたすけんとする門徒の通路を塞《ふさ》いでしまった。  信長が薨《こう》じて後、嘉隆は、豊臣秀吉に与《くみ》して、北畠|信雄《のぶかつ》に背き、小牧の戦には、滝川一益らとともに、尾州|蟹江《かにえ》、あるいは大野を攻めたが、不覚にも、徳川勢に一敗を喫した。しかし、秀吉は、その志を嘉《よみ》して、嘉隆に、志摩一国を与えた。  秀吉が、征韓の令を発するや、全土の大木をえらんで、巨船「日本丸」をつくったことは、前述した。  慶長五年の関ヶ原役には、嘉隆は、石田三成についた。徳川家康とウマが合わなかったのである。  その時、すでに、嘉隆は、家を嫡子《ちゃくし》の長門守守隆に譲って、隠居していたが、守隆が徳川方についたときくや、憤然となって、熊野の海賊や漁夫たちを呼び集めて、守隆の居城鳥羽城に乗り込んで、奪いとり、年来の仇敵であった勢州|度会《わたらい》の領主|稲葉蔵人《いなばくらんど》道通の居城岩手を攻め落した。  率いるのが、ただの兵ではなかった。獰猛無比《どうもうむひ》の海賊漁夫であった。東海道をあばれまわって、粮食《ろうしょく》を奪い、女子を犯し、城を焼きはらった。  長門守守隆は、家康にしたがって、上杉討伐に行っていたが、この報をきいて、急遽《きゅうきょ》本国へ下って来て、父を諭《さと》したが、嘉隆は、敢えて降らなかった。  守隆は、やむなく、おのが居城を攻めなければならなかった。  関ヶ原で、石田三成は、敗れた。  嘉隆も、やむなく、鳥羽城をひらいて、息子に渡し、紀州新宮に落ちて行った。  守隆は、おのが勲功にかえて、父の罪を、家康に謝した。家康も、嘉隆の水軍第一人者たる腕を惜しんで、守隆の乞いを容《い》れた。  しかし、守隆が新宮にかけつけた時、一足おそく、嘉隆は、自刎《じふん》して果てていた。  水軍に名を轟《とどろ》かし、剽悍《ひょうかん》きわまる海賊の統帥《とうすい》となり、水上の王者であった武将の最期にふさわしく、嘉隆は、波浪高い熊野灘にのぞむ千仭《せんじん》の断崖上に、胡坐《あぐら》をかいて、おのが手で、首を刎《は》ね、その首をはるかな下方の、岩を噛んで白烟を散らす怒涛へ落下させたのであった。  猿飛佐助が、一夜、忍び入ったのは、武名高いその九鬼家の居城鳥羽城であった。  城主守隆、征夷大将軍を拝するために上洛して来た徳川秀忠にしたがって、京に在って、留守であった。  佐助が、音もなくすべり入ったのは、守隆夫人の寝所であった。  夫人|美音《みね》は、美貌のきこえ高かった。鎌倉以来の九州の名門伊東氏の女《むすめ》であった。  屏風《びょうぶ》の蔭から、ひょいと首をのぞけた佐助は、灯心一本の小さな赤い灯に照らされた夫人の寝顔を一瞥するや、思わず、ごくっと、生唾を嚥《の》みこんだ。  かねて、噂にはきいていたが、これほどまでに玲瓏《れいろう》たる玉肌とは、思わなかった。  ——天女が、この世に実在するものなら、まさしく、このすがたじゃな。  佐助は、生れてはじめて、舌をなめずった。  そろりと、屏風の蔭から、立ち出て、しばらく、佐助は、恍惚《こうこつ》と、その寝顔に、見惚れていた。  この醜い矮小の忍者の視線をあびて、ねむっている神経が、刺戟されたか、夫人は、美しい眉宇を微かにひそめた。  佐助は、音もなく跳んで、褥《しとね》の裾にうずくまった。そして、その裾を、そっともちあげると、腰に携げていた黒い革筒《かわつづ》をはずし、蓋をとるや、すばやく褥の中へ——きちんと揃えられたふたつの蹠《あしのうら》の前に置き、手を抜き、掛具を隙間のないようにおさえた。  曾て、十五歳の頃、佐助は、老師戸沢白雲斎に命じられて、千石取り以上の武家屋敷に忍び入り、はじめて懐妊《かいにん》した奥方の陰毛を、抜きとって来たことがある。佐助は、実に、百本以上の陰毛を聚《あつ》めたものであった。  これはと狙った若女房の股間から、それを抜くことは、至難の業であったが、佐助は、ただの一度も、失敗しなかった。  それは、いま褥の中へさし込んだ革筒の中に封じこめた幻夢香のおかげであった。  雨あがりに立ち昇る|いき《ヽヽ》のようなそれは、女体の上をゆるやかに匐《は》いめぐるうちに、妖《あや》しい痴情を夢裡《むり》に催させて、おのずと、下肢を拡げさせ、恥所にいくたびか快い痙攣を起させるのであった。  のみならず、意識を甦《よみがえ》らせても、平常の思惟力《しいりょく》は喪われて居り、いわば催眠術にかかったように、おのが意志で動くことは叶わぬのである。  佐助は、褥の裾に、石地蔵のように動かずに蹲《うずくま》っていた。  やがて、かすかな呻きとともに、褥がうごいた。  佐助は、掛具を、するすると、ひっぱって、夫人の寝姿を、徐々にあらわにした。  貞節のほまれ高い美女は、いつの間にやら、白羽二重の寝召《ねめし》を乱していた。  佐助は、その場を動かずに、 「お起きめされ、奥方——」  と促《うなが》した。  夫人は、ぱちりと目蓋《まぶた》をひらいた。双眸《そうぼう》は潤《うる》みをおびて、なお、陶酔《とうすい》の中で、茫乎《ぼうこ》としていた。 「言上つかまつる。それがしは、五十鈴川のほとりなる皇女《こうにょ》ノ森に棲む天狗にご座候」  せいぜい、声音に威厳をもたせた佐助は、そう告げてから、首をのばして、寝顔を視た。  夫人は、天井にむかって、幻夢香に酔った黒瞳をじっと据えたままでいる。  ——天狗、というのは、ちょっと、妙だが、もう云うてしもうた。  そんなことを考え乍ら、 「皇女ノ森のいわれを、ご存じでござろうか?」  と、問うた。夫人は、頷いた。  雄略帝の第二皇女|栲幡《たくはた》皇女は、伊勢神官の斎官であった。阿閉《あべ》の臣《おみ》国見という者が、恋慕して、いくたびか誘惑しようとしたが、もとより、皇女の態度は冷たかった。国見は、|ごう《ヽヽ》をにやして、皇女が廬城部《いおきべ》武彦という男と密通して、孕《はら》み給うた、と朝廷へ讒奏《ざんそう》した。皇女は、帝の逆鱗《げきりん》をおそれ、御鏡を抱いて、この森で、縊《くび》れ薨《こう》じた。帝は、その屍体をさがしもとめて、腹中を割いてごらんになった。すると、その中には、氷のような透明なものがあるばかりであった、という。 「関ヶ原のいくさの終った頃のことでござる。お義父《ちち》上大隅守嘉隆殿には、当城をあけ渡して、熊野新宮に落ち行かれる途次、伊勢参宮をなされて、皇女ノ森に寄られ申した。栲幡《たくはた》皇女の御霊に捧げる曼陀羅《まんだら》を刻んだ童女の石像を安置なされて、次のように祈られ申した。  わが子守隆めは、才智ありと雖も、武将の面目を立てる豪放の気概を持たず、不肖《ふしょう》と申すほかなし。そもそも、この嘉隆は、西葡《せいふ》の大艦にならいて、水軍を錬磨《れんま》し、朝鮮はさらなり、山東省より福建に至るまで襲撃する倭冠《わこう》を発達せしめ、台湾、呂宋《ルソン》、暹羅《シャムロ》をも征せずんばあらずの大志を抱きたり。不運にして、大志は砕けたりとはいえ、わが血を継ぐ裔《すえ》に、いつの日にか、それを実現せしめずんばあらず。されば、守隆に、その望みを托すこと叶わざれば、守隆の子に、わが遺志を実現せしむことを祈るべし。されど、守隆は、その子を作る資格なし、冀《ねがわ》くは、守隆妻|美音《みね》をして、夢裡に、日本一の勇ましき子を孕《はら》ませたまえ。  こう祈られ申した。拷幡《たくはた》皇女には、この願いをききとどけ給うて、それがしを、当城へ、遣わされたのでござる。……今宵、二見浦の乳母石に、竜神が出現し給うて、奥方を、孕ましめんとのお告げがござった。つつしんで、神意をお受け下されたい」  佐助としては、一生一代の大嘘であった。  夫人は、こくりと領いた。 「参じまする」 「されば!」  佐助は、するすると進み寄って、黒い布で目かくしさせると、しなやかなからだを、かるがると、背負うた。  二見浦には、海中左右に大石が立っている。注連《しめ》をはって、垢離《こり》かき場、という。二つの石が立っているので、立石崎ともいう。ここの藻を湯に入れて、沐浴《もくよく》して、汚れを洗って、参宮するのが、世人のならわしであった。  まだ陽の昇らぬ、淡々《あわあわ》とした夜明けの冷気がはりつめた時刻——。  注連ばりのふたつの大石の前の、汐が干いたばかりの砂上に、佐助は、背負うて来た天下の美女を、そっとおろした。 「いましばらく、お待ち下されい」  佐助は、夫人をうしろからかかえると、小岩へ腰かけた。  夫人は、幼児のように、素直に、佐助の膝へ、臀部《でんぶ》をのせて、うつろな眸子《ひとみ》を、注連岩へ送っている。  やがて——。  一斑の雲片もとどめぬ束の空が、ほんのりと、染った。  とみるや、真紅の日輪が、徐々に、水平線を彩りつつ、昇りはじめた。 「合掌《がっしょう》なされい。竜神が、お出ましじゃ」  佐助は、夫人のからだを、かるくゆさぶった。  夫人は、両手を合せると、青波を浸して、さして来た陽光に、眸子《ひとみ》を眩しげに、ほそめた。  と——。  注連岩の大きい方の頂きに、ひょっこりと、人影が、現れた。  岩見重太郎は、佐助の指示にしたがって、白頭巾、白衣、白袴のいでたちで、岩蔭にかくれていて、日の出とともに、頂きに登ったのである。  仁王立ちになった重太郎は、携《たずさ》えた御幣《ごへい》を、頭上で、うち振った。  それを、合図にして、佐助は、夫人の寝召の前をはぐり、両膝を思いきり大きく拡げさせた。 「竜神の神力によって、奥方は、懐妊なされる。身も心も、傾けられい」  促《うなが》し乍ら、猿臂《えんび》をのばして、左手を胸の隆起へ、右手を股奥へあてがった。  このようなみだらな振舞いは、佐助として、はじめてのことであった。さいわいに、城や館へ忍び込んだ際、屡々《しばしば》、閏房秘戯の光景を目撃しているので、それをなぞってみる次第であった。  注連岩の頂きに立った重太郎は、この様を視下《みおろ》してかっと、炬眼《きょがん》をひき剥《む》いた。  ——佐助め!  いっぱい食わされたような憤怒が、全身をかけめぐった。  佐助は、ただ、そういう装束で、注連岩に立つように、云っただけで、それがいかなる効力をもつ手段であるか、明かしていなかったのである。  遠目にも、はっとするほどの美女を、うしろからかかえて、白い肢体をあらわにさせ、さも愉しげに、乳房や秘所をもてあそびはじめたのである。  朝陽に映えた若い美しい肌は、飢えに飢えていた重太郎を、かっと逆上させた。  しかし、飛び降りて、そこへ奔《はし》り寄るわけには、いかなかった。 「わしが何をしでかそうとも、注連岩の上を一歩も動いてはなり申さぬ。これは、かたく約束して下されい。もしお主が約束を破るならば、わしは、江戸丸を焼きはらうのに、手だすけいたさぬ」  佐助から厳重に申し渡されていたからである。  ——おのれ、猿め!  重太郎は、鞴《ふいご》のように厚い胸を上下させて、烈火の息を吐き乍ら、岩もふみくだけよ、とふんばった。  竜神が、途方もなく生ぐさい欲情にかりたてられているとは露知らず、鳥羽城主夫人は、背後からのばされた双手の指に、豊かに満ちた胸の隆起や、艶々しい黒い繁みの蔭の柔襞を、惜しげもなくなぶらせて、女の官能を疼《うず》かせようと一心こめていた。  瑞々《みずみず》しく頬を上気させた美しい面と、細い肩へのせた佐助の貌は、まことに対蹠《たいせき》的であった。佐助は、一向に、愉しんでは居らず、このようなみだらな振舞いに、大いに忸怩《じくじ》として、八の字眉をさらにしかめて、窪んだ丸い目に、大層当惑した時と同様の色を浮べていた。 「……ああ……あ——」  ついに、ひしと目蓋をとじた夫人が、顔を空ざまに仰向けて、背を反らすと、はげしく、身もだえた。 「佐、佐助!」  目撃するに堪えられなくなった重太郎が、竜神にあるまじき、悲鳴を発した。 「や、やめい! やめんか!……もう、おれは、か、敵わぬ!」  しかし、その声は、われを忘れて身もだえる夫人の耳にはとどかなかった。  突如、佐助は、両手を引いて、夫人のせなかへ、当て身をくれるや、ぐったりとなったそのからだを、ひょいと、ひっかついで、タタタ……と奔《はし》りはじめた。 「佐助っ! く、くそっ!」  重太郎は、呪縛《じゅばく》を解かれたように、注連岩から、巨躯を躍《おど》らせた。  砂を蹴ちらして、佐助が腰を下したところへ馳せ寄ってみると、石の上には、椀《まり》が一個のせてあった。  底には、とろりとした白い液が、ほんの少々、たまっていた。  舌打ちした重太郎は、椀を掴んで、岩へたたきつけようとして、  ——待て。  と、思いなおした。  ——せっかく採ってくれたのだ。すててはもったいないぞ。  いまいましい限りではあるが、重太郎は、佐助の努力をもみとめないわけにいかなかったのである。  六  鎌倉由比ヶ浜で、進水を待つばかりになっていた千八百石積みの巨船江戸丸が、怪火を発して、一夜にして、烏有に帰したのは、それから、二十日ばかり後であった。  夜がしらじらと明けた頃、一艘の小舟が、片瀬の沖あいを、ゆっくりと進んでいた。  漕いでいるのは、岩見重太郎であった。  佐助は、舳先《へさき》に蹲《うずくま》って、蒼い顔をしていた。  山に育った佐助は、舟に弱く、酔っていたのである。  それを、小気味よさそうに、横目で見やっていた重太郎は、 「佐助、陸路を行けば、箱根や駿河で、追手勢と戦わねばならん。面倒をはぶいて、このまま、舟で、桑名あたりまで参るとするか」  と、云った。 「冗談ではない」  かぶりをふった佐助は、急に、げえっと嘔吐《おうと》しそうになって、舷《ふなばた》から首をつき出した。 「降りたいか、佐助」 「う、うむ。……わしは、海は、苦手じゃ」 「よし。では、大磯あたりに、着けてやろうず」 「たのむ」 「しかし、これには、条件があるぞ」 「なんじゃな?」 「いま、この舟で、おれが、何をしても、文句を申すなよ?」 「………?」 「よいな、佐助——。戻って、左衛門佐殿につげ口など、いたすなよ」 「何をするつもりじゃ?」 「まあ、黙って眺めて居れい」  重太郎は、漕ぐのを中止して、艫《とも》に据えていた大きな鎧櫃《よろいびつ》の蓋を、ひらいた。  それは、源頼朝奉納の見事な鎧であると云って、鎌倉のどこかの寺から、重太郎が、かついで来たものであった。  かるがるとひき出されたのは、鎧ではなかった。死んだようになっている若い女であった。  衣裳で、かなりな身分の武家娘と、判った。  美しい面立《おもだち》であった。色白の肌もふっくらとしている。 「どこから拉致《らち》して来たのだ?」  佐助は、あきれて、訊ねた。 「どこからでもよい。徳川の家臣の娘であることはまちがいないぞ」  重太郎は、大胡坐をかいて、娘を乗せると、 「とくと、眺めて居れいよ」  と、にやりとした。  これから、二見浦でやられたくやしさを、ぞんぶんに、報復してやろうというわけであった。 「佐助、おれは女子を可愛がるのに、チト勢いがよいぞ。少々船がゆれるが、がまんせい」  そうあびせられて、佐助は、また、胸がむかむかして来て、あわてて、海面へのり出して、生唾をはいた。 「はっはっは……。白昼、海上で、若い美しい女子を抱くことは、海賊の冥利じゃ。竜神も照覧あれ」  重太郎は、娘の帯を、解いて、前をはだけさせると、ゆるゆると、胸から腹へと、撫でおろした。 「おい、あれは、追手ではないか」  遠く、浜辺に、騎馬の蹄《ひづめ》の音をきいて、佐助が、云った。 「かまわん、すてておけ。まず、こっちの行事をすまさねばならんわい」  重太郎は、巨躯をゆすって哄笑した。その哄笑で、船がはげしくゆれ、佐助は、またもや、首を舷からつき出して、げえっと咽喉を鳴らさなければならなかった。 ◆猿飛佐助◆ 柴錬立川文庫 柴田錬三郎著 二〇〇五年四月二十五日